第3節 「生まれ変わり」の仕組み

2.人生の回顧と反省

 ホイットン博士の被験者たちの証言は、みな「裁判官」(指導役の魂)の存在を裏づけており、ほぼ全員が、3人や5人、まれに7人の、年老いた賢人(のイメージでビジョン化された魂)の集団の前に出て、一種の裁きを受けたという。彼らは、姿が不明瞭な場合もあれば、神話に出てくる神や、宗教上のマスターの姿として見える場合もある。これらの指導役の魂たちは、目の前の人物に関して知るべきことは何でも直感的に知り、その人物が終えてきたばかりの人生を評価するのを助けてくれる。被験者たちは、「彼らと一緒にいるとわが身の未熟さを痛感する」と証言するが、場合によっては、次の転生について、どうすべきかを教えてくれることもあるという。

 中間生に、各人にとっての「地獄」があるとすれば、それは、反省のために自分自身の人生を省みる瞬間のことである。指導役の魂たちは、今終えてきたばかりの人生を回顧するよう促し、目前でパノラマのように、その一生のビジョンを見せてくれる。そのビジョンを見ながら、終えてきた人生における後悔や罪悪感、自責の念が心の底から吐露され、被験者たちは、見るも無惨なほど苦悶し、悲痛の涙にくれる。他人に与えた苦しみは、あたかも自分がその苦しみを受けるかのように身に沁みる。ある被験者は、「まるで、人生を描いた映画の内部に入り込んでしまったかのようです。人生の一瞬一瞬が、実感を伴って再演されるのです。何もかも、あっという間に」と表現する。

 この人生を再現するビデオテープのようなビジョンから、魂は細大漏らさず意味をくみ取り、厳しく自己分析を進めていく。魂は初めて、自分が幸福を棒に振った時のこと、他人を傷つけてしまった時のこと、命にかかわる危険の間際にあった時のことなどを理解する。我々の誰もが、終えてきた人生における言動の説明を求められるが、その際に問題とされるのは、我々一人一人の誠実さ、道徳性のみであるという。恋人ののどを切った被験者は自分ものどを切られたように感じ、不注意で子供を死なせてしった被験者は、鎖につながれた自分のビジョンを見せられる。生前に裏切り行為をしたある女性は、「あまりの恥ずかしさに、その3人を見上げることもできませんでした」と回想している。

 しかし、指導役の魂たちは、いわゆる「エンマ大王」のように恐ろしい存在ではなく、各人が充分に反省したのを見ると、回復と癒しのエネルギーを与えてくれる。ある被験者は、その時の感情を、「裁判官たちの前へ出るのは恐ろしかったですが、すぐに心配ないと悟りました。みな優しく慈悲にあふれていて、怖れは消えました」と回想する。指導役の魂たちは、己の罪を悔いる魂に自責の念をつのらせないよう、人生のプラス面を指摘して勇気づけてくれる。「さあ、元気を出して。あなたの人生は、あなたが考えているほど悪くはなかったのだ」と。指導役の魂たちは、厳めしく振る舞ったりせず、むしろ生徒たちを励まして過去の過ちから学びとらせてやろうとする慈しみ深い教師のようだという。そして、これまでに何度にも渡って転生した人生の中で重要なエピソードを示しては助言を与え、たとえそれがいかに芳しくないものだったとしても、「いかなる体験も、あなたを成長させてくれるものだ」と元気づけてくれるのである。

 このような、退行催眠による証言に一致するものとして、レイモンド・ムーディ博士が典型的な臨死体験として認定する事例を示してみよう。雷に打たれて心臓が停止したある男性は、指導役の魂のことを「光の存在」と表現しながら、次のように証言する。

 「光の存在が私を包み込むと、私の前人生の回想が始まった。ダムが崩壊し、脳裏にしまい込まれていた記憶が全部あふれ出したような感じだった。この人生の回顧は、楽しいものとは言えなかった。始めから終わりまで、私は胸の悪くなるような現実を突きつけられることになった。私は、実に嫌な人間だったのだ。利己的で、意地の悪い男だった。」

 この男性は、心臓が停止した状態のまま、子供時代から中年を迎えるまでの人生を事細かに回想した。他人や両親に対して自分が行った言動を再体験し、同時に自分が傷つけた相手の気持ちになって、自分の行動を客観的に評価していったという。例えば、ベトナム戦争で敵兵を射殺した場面を次々と思いだした彼は、その時の心境をこう語る。

 「私は引き金を引き、ライフルの反動を身体に受けた。一瞬、間をおいてから、彼の頭が吹き飛び、その身体ががっくりと倒れ込んだ。当時、私が実際に目にした光景は、そういうものだった。ところが回想の時は、私はその北ベトナム軍の大佐の視点から、この事件を体験していた。彼が受けたはずの身体の痛みは感じなかったが、自分の頭が吹き飛ばされたときの彼の混乱と、身体を離れ、もう二度と家には帰れないのだと気づいたときの悲しみを感じとった。そして、感情の連鎖反応が起こり、一家の働き手を失ったと知った時の彼の家族の悲痛までもが伝わってきたのだ。」

 しかも、自分が直接手を下したわけではなくても、自分が輸送した武器によって多くのベトナム人が殺される光景や、父親が殺されたと知って泣き叫ぶ子供たちの姿を、「光の存在」から見せられたという。そして、この男性は、猛烈な反省を促される。

 「そこで人生の回想は終わった。人生を回想し終えると、今度は、今見たことを振り返り、反省し、結論を出す時になった。私は、すっかり恥じ入っていた。自分が送ってきた人生が、実に利己的なもので、他人に救いの手を差し伸べることなどまずなかったという事実を思い知らされたのだ。そう、人生の中心は、自分だけだった。自分独りのための人生だった。まわりの人間のことなど、眼中になかったのだ。光の存在を見つめた私は、悲痛と恥を深く感じていた。非難は免れないと思った。私の魂を打ち震わせるような、すさまじい非難を受けるだろう、と。人生を振り返って目にした自分は、全く価値のない人間だった。非難以外、考えられない。」

 しかし、ホイットン博士の被験者たちも言うように、指導役の魂たちは、むやみに非難したりはせず、自分自身で十分反省するよう見守っていてくれる。

 「光の存在をじっと見つめていると、私に触れているように感じた。その接触から、私は愛と喜びとを感じとった。それは、おじいさんが孫に与えるような、無条件の思いやりに等しいものだった。そしてもう一度、私は反省の時間を与えられた。私は人にどのくらいの愛情を与えてきたか?そして人からどれくらいの愛情を受け取ってきたか?その時目にしたばかりの回想から考えると、善が1に対して、悪が20という割合だった。」

 そして、十分に反省したことを見届けると、指導役の魂たちは、むしろ温かいメッセージをかけ、激励してくれるのである。

 「反省したことで確かに痛みや苦悶を感じたが、そのおかげで、人生を正しく歩んでいくための知識が身についた。光の存在からのメッセージが、頭の中に響いた。『人類は力ある霊的な存在で、地上に善を創造するために生まれてきたのです。善は、不遜な行為からは成し遂げられません。人々の間で交わされる優しさ一つ一つから成し遂げられるのです。小さなことが積み重ねられた結果なのです。なぜなら、それは無意識の行為であり、あなたの真の姿を映し出してくれるからです。』私は元気づけられた。単純明快な秘訣がわかったのだ。つまり、人生の終わりに得る愛情の深さと善意は、人生の中で人に与えてきた愛情と善意に匹敵するということ。『それがわかれば、これから自分の人生を、より良いものにできるでしょう』と、私は光の存在に言った。しかしその時、もう戻れないのだ、と言うことに気づいた。雷に打たれて、死んでしまったんだ。」

 その後、この男性は、「光の存在」から、再びこの世に戻ってやり残したことを果たすように指示され、奇跡的に息を吹き返す。

 「私は、いつの間にか廊下の上に浮かんでいた。下には人を乗せた車輪付きの担架が置かれていた。シーツで覆われたその人は、身動きすることもなく、じっと横たわっていた。死んでいたのだ。白い服を着た2人の係員がエレベーターから現れ、その遺体の方へやってきた。2人は煙草をふかしながら、私が漂っていた天井に向けて、煙の固まりを吐き出していた。あの遺体を安置所まで運んでいくんだな、と私は思った。彼らが遺体のところへ到着する前に、私の同僚のトミーが戸口から現れ、担架のわきにたたずんだ。その時に私は、シーツの下の人間は自分なのだと気づいた。私は死んでいた。今、まさに遺体安置所へ運ばれようとしているのは、私なのだ。というよりも、私のなきがらなのだ。」

 彼は、家族と医者が到着するのを上空から観察し、家族が自分の生き返りを願う祈りの気持ちに包まれるように、全身に火傷を負った自分の肉体へと、再び下降していった。

 「肉体に戻ったとたん、そこに宿っていた苦痛が押し寄せてきた。再び、火あぶりにされたようだった。表も裏も焼きつくされた身体は、激痛に襲われていた。身体を動かすことができなかった。係員が遺体安置所に運ぼうとしているというのに、身体が動かせないというのは最悪の事態だ。残る手段はただひとつしかなかった。私は、シーツに息を吹きかけた。『おい、生きてるぞ、やつはまだ生きてるぞ!』とトミーが叫んだ。」

 この臨死体験者が語る「光の存在」(指導役の魂たち)については、メルヴィン・モース博士の調査においても、多くの患者が証言している。例えば、23歳で臨死体験をした女性は、このように回想する。

 「光の存在は私を包み込み、私の人生を見せてくれました。これまでにしてきたことを全て見て、反省するわけです。中には見たくないこともありますが、終わったことだと思えば、かえってほっとします。特に覚えているのは、子供の頃に、妹のイースター・バスケットを横取りしてしまったことです。その中のおもちゃが欲しかったものですから。でも、あの回想の時には、妹の失望や悔しさを自分のことのように感じました。私が傷つけていたのは自分自身であり、喜ばせてあげていたのも、又自分自身だったのです。」

 臨死体験中に、人生のパノラマ・ビジョンを見ることは通常であるが、ある女性は「人間関係の波及効果」とも言うべき仕組みに関する貴重な教訓を見せられたという。

 「そこには、人を傷つけてばかりいた私の姿がありました。そして、私が傷つけた人たちが、今度は別の人を同じように傷つけている姿がありました。この被害者の連鎖は、ドミノ倒しのように続いていって、また振り出しに戻ってきます。最後のドミノは、加害者である私だったのです。ドミノの波は、向こうへ行ったかと思うと、また戻ってきます。思わぬところで、思わぬ人を私は苦しめていました。心の痛みが、耐えられないほど大きくなっていきました。」

 このように、退行催眠によって「中間生」を思い出した被験者たちと、臨死体験によって「あの世」をかいま見た患者たちとの証言に、極めて共通性があることは注目に値しよう。被験者たちが思い出した「中間生」と、患者たちが見た「死後の世界」とが同じものを指していることを示唆すると同時に、双方の証言内容が、互いの信憑性を高め合うことになるためである。

 


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