ケセン歴史の道 (街道)


 

 

l.浜街道   

2.遠野街道  

3.盛街道   

4.今泉街道  

5.高田遠野街道


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***** けせんの街道 *****

l.浜街道

 

古来から水戸街道の延長である岩沼までを浜街道と呼んでいる。

さらに石巻から柳津、志津川、歌津、津谷を通って気仙沼に至り、

鹿折から綱木坂、松の坂を越え気仙町今泉に達する。

今泉から高田、通岡峠、田茂山(現盛町)を経て

越喜来、吉浜、小白浜を抜け釜石に至る道中も

「浜街道」と呼ばれていた。

柳津以北は現国道45号とほぼ重なり、

幕府の巡検使や藩主巡検にも

一部利用されていた気仙の浜街道は

岩手・宮城の県境に

「松ノ坂」があり頂上に松の坂地蔵がある。

ここが岩手県分の起点となっている。

峠より今泉へ坂道を下ると「山神の道標(追分碑)」に達する。

ここで別ルートと合流する。

このルートは古い時代に使用されたが、

後に松の坂地蔵に通じるルートに切り変えられたと言う。

峠には「塞の神追分碑」がある。

また、

盛宿から古浜宿へのルートは

立根から生江峠を越え越喜来の河内に通ずるルート(旧道)と

立根町細野で分岐し、現国道沿いに東進し、越喜来に至るものと、

その途中で分岐し新峠を越え河内に至るルートがあった。

嘉永5年8月、

仙台藩最後の殿様慶邦公が巡検の際、

新峠で休憩をしたとの党え帳がある。
  

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***** けせんの街道 *****

 2.遠野街道

 

上下有住は古来から隣国遠野との国境の町であった。

平時には、

陸と海辺との心温まる交易の道であった。

が、戦時となれば、

卑馬や兵士がひしめきあい、

芝草を踏みしだく殺伐とした「死出の旅路」と変わった。

「貞任山・物見山・母衣下山」の名称に結びついた伝説が示すように、

古代からこの山里でも熾烈な戦いが展開されている。

(上有住村要覧には鉄の鏃の出土を紹介している)

中世にも度々の戦闘があり、

文明lフ年の有住合戦・遠野城主、阿曽宏長が

横田城奪還を賭けた慶長6年の三度の戦いなど。

それらは、

「新切・赤羽根・火の土」で合戦の絵巻が繰り広げられたのであった。

その後、上有住村「二度成木」と「新切」には御境目番所が置かれていた。

盛町から田代屋敷までは、盛街道と垂複し、

右に分岐し日頃市上石橋から「小松峠林道」の標柱の道を登ると、

頂上が小松峠であり住田町との境である。

そこから下った辺りに小松一里塚がある。

塚は双方とも残っているが、

松は枯れていて今はない。

ここ、繋ぎ沢を下ると小松洞窟がある。

先住民の住居跡であり重要な遺跡である。

川をはさんだ対岸の大絶壁を「鏡岩」と言い名勝である。

川を渡れば小松集落で、深渡ー天岳〜和田野に至ると、そこに一里塚がある。

ここが高田遼野街道との合流点である。

ここから遠野までのルートは高田遠野街道と重複する。

  

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***** けせんの街道 *****

3.盛街道

 

この街道は、

内陸部から海岸に出る脇街道の往還路である。

奥州道中を水沢市佐倉河で分岐し、

北上川を渡り、

岩谷堂人首の両宿場を経由し、

種山の物見山を越え、

箕輪山を経て気仙郡に人り、

世田米宿から白石峠を越えて盛宿へと通じる。

この道筋を盛街迫と呼んでいる。

その途中では、

気仙街道、遠野道、江刺街道などの呼称も使われていた。

約千百年前、

胆沢城を築き、陸奥国を征討した頃に切り開かれ、

塩や海産物を運んで、政府軍の兵士を養った。

物資運搬の道は細く長い難路であり、

官道として江戸時代まで統いた。

また、

岩谷堂から分岐し、

伊手町宿から峠を越え大股を経由し

小股で合流するルートがある。

この道を江刺往還と呼んでいた。

旧仙台領古絵図、

慶長ー元和年中の絵図、

大股菊池家蔵の正保元年(l644)種山周辺等の絵図にも

江刺往還と記入されている。

両ルートとも内陸地方より米を、

海岸地方より

塩、海産物を輸送する生活上重要な交通路であったと思われる。

明治30年、大改修を行ない車馬の通行を可能にした。

白石随道はこの時

小友村の戸羽組(土木工事請負業認可第1号)によって

完遂された。

擁壁は小友村で焼いたレンガで、

イギリスから輸入したポルトラント・セメントが初めて使用された。

これが端緒となって、

セメント工場、

日頃市発電所が

建設されたのであった。
  

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***** けせんの街道 *****

4.今泉街道

 

今泉街道とは、

「奥州道中の山ノ目宿を起点として東に進み、

仙台藩西磐井郡の

中里・柵ノ瀬・東磐井郡の舞草・相川の

各村(以上一関市)を経由し、

さらに

松川・長坂(東山町)摺沢・大原(大東町)の4宿駅を通過、

笹ノ田峠を越えて気仙郡に入り

矢作村(陸前高田市矢作町)から

今泉宿(陸前高田市気仙町)へと通じる迫筋を指している。

また、

気仙街道などとも呼ばれていたようである。

この道筋は、

元禄ll年(l697)の

「束山舞草村絵図」、

「相川村絵図」、

「松川村絵図」、

「大原村絵図」、

元禄l2年の「矢作村絵図」等によって確認できる。

気仙管内は

笹ノ田峠のうち標示合橋から梅木、矢作を経由し、

今泉宿までの道筋であるが、

山の中腹の急斜面や断崖絶壁の難所が多く、

湯漬畑には、嘉永4年(l851)に道路改修碑が建立されている。

 

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***** けせんの街道 *****

5.高田遠野街道

 

「奥州道中」の日詰駅から分岐する脇街道が、

大迫・宮守駅を経由して遠野郷(横田駅)に入る。

ここから赤羽板峠を越えて、

上有住駅に達したあと

下有住・世田米・横田を経て高田駅に至る街道を

遠野街道と呼ぶ。

別に高田街道ともいう。

この街道は、

南部領遠野との交易交通上重要な道路であった。

また、江戸時代は、

世田米から今泉宿までは幕府巡検使の道筋でもあった。

この道は二つのコースがあり、

高田から世田米までは同じであるが、

世田米駅の小口洞から大平ー朴峠を越え上有住和田野に出る。

さらに赤羽根峠を経て遠野に至るコース。

もう一つの道は、

世田米本町から柿内沢を通って大畑峠を越え、

下有住の十文字に出て上有住に至るコースである。

嘉永5年の御出馬の際は、この道を通っている。

なお、

この道をまっすぐ進めば奥新切の蕨峠に至り、

遠野の「来内」に出る最短のコースである。
  

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* * * * * 備 考 * * * * *

一里塚について


 

江戸時代に整備された一里塚は、

幕府が全国的に実施した交通政策の一環をなすもので

世界にも類のない、陸上交通史上のシンボルであった。

街道に一里(約4km)ごとに作られた塚。

起源は古代の中国にあり、

一里ごとに上喉を築き崩れを防ぐためにエンジュ(槐)を植え、また銅表(*解説1)を立てて里数を示した。

日本ではエンジュの代わりにエノキ(榎)又は松を植え、

塚の上には小銅を立てる事もあった。

これは織田信長が始めたと言われるが、

慶長9年(l604)徳川家康が秀忠に命じて江戸日本橋を基点とし、

五間四方の塚を道の両側に築いた。

これらは後に道路改修のとき多く崩されたが、残るものはその上に社をまつり、

あるいは崩れてエノキのみ根をあらわし茂るのもある。

この地方には塚の上に松を植えてあるのが多い。

塚の用は、夏にはエノキの葉影に休み、常に人夫の賃金をはかる基準となったり、

日本橋から全国への里程を知らせる役にたった。

塚の附近に古碑群のあるのが目につく。

道行く人々が木陰で休み、出会いと語らいの中から色々な信仰にもつながり

自然的に碑を立て、病気や旅の安全を願ったものだろう。


○豊臣秀古、徳川家康らは60間をl町、36町を1里とした。

明治9年に改めて36町を以ってl里と定められた。

l里が36町とすれば約3,920mである。

 

※解説1  銅表とは、銅板による標示板のことを言う。

 


 

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