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日本初の彗星発見者 / 

ケセン歴史の道

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気仙大工
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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千石船・気仙丸
江戸海運のロマン満載  今、蘇る伝統の一枚帆船
寒流と暖流のぶつかり合う三陛の海は古くから好漁場として知られ、
豊かな魚介類に恵まれました。
いわゆる千石船(正しくは弁財船=ベざいせん)は、
江戸経済を支えた海運の立役者でした。
全国で生産される米が商品として流通し、
また木綿・油・酒など多種多様な商品が広く出回ったのは
弁財船による全国的海運網の発展によるものでした。

気仙丸の概要

  

350石積み(約60トン)

船の長さ

18メートル

5,75メートル

高さ

5メトル

帆柱

17メートル

帆の広さ

タタミ85畳分

 

追い波と舵を守るために発達した船尾構造の美しさ、

そして船体に特別に施された龍の彫刻など、

規模、技術的完成度、そして芸術性からいって、

気仙丸こそは伝統の技と地域住民の心が一つに溶け合った、

日本一を誇る出来栄えといっても過言ではないでしょう。

 

 
千石船建造のあらまし
三陸沿岸の東南部に位置する気仙地方は、気仙杉(けせんすぎ)や五葉槍(ごようひのき)、赤松、けやきなどの良材に恵まれ、気仙大工や船大工の出稼ぎとあいまって、技術も各地から導入され、独特の技能として育まれてきました。
この伝統ある船大工の技術を生かして千石船を復元建造し、三陸・海の博覧会に出展し、合わせてふるさとの歴史的文化遺産として後世に伝えていこうとの運動が地元大船渡商工会議所を中心に盛り上がり、これを受けて気仙地方の船大工有志による「気仙船匠会」・14人)が結成されました。
平成2年の秋から杉、けやきなど用材の切り出しが始まり、平成3年2月に着工した建造工事は順調に進んで、同年12月完成、同4年5月、待望の進水に漕ぎつけました。建造総工費は7千万円。
県をはじめ地元2市2町の自治体、諸団体、企業、そして多くの市民たちが街頭募金などを通じ浄財を寄せてくれました。

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ケセン言葉
ケセン言葉 と 標準語 のちがい
ケセン言葉 標準語
好かねァ
好きでない
やンた 
いやだ
早く来(こォ)ばや
早く来なさい
さようでござりァす sayo de gozari asu さようでございます
おンもッせぇ おもしろい
おンもッしョィ おもしろい
行き(いぎ)ァす いきます
咲き(さぎ)ァす さきます
退院したど 退院したそうだ
桜ァ咲いたど 桜が咲いたそうだ
こッせァる 作る、造る
子供 こッせァる 子供を 産む
おがしねァ おかしい
じんけァねァ なさけない
がせァねァ 力が足りない
がおる 弱る
げァねァ つまらない
おどみッこァ 末っ子
どこサ行く どこへ行くの
どこサ行くッけな どこえも行くな
あンだァ あなた
はかいった 早くできた
あがらッせン

(家に)入ってください

(食事を)食べてください

寝ろッつァ 寝ろとさ(伝達)
火事だッつァ 火事だそうだ
よけいなてァとり よけいなお世話
いみえァ 仲が悪い
あめる 腐敗する
なれる (腐敗までいかない状態)
ずんぼう ものぐさ
かんじょうする トイレをつかう
あまり違いはありません ケセン言葉
比べてみると 
室町時代口語 さようでがざります SAYO DE GOZARI MASU
標 準 語  さようでございます SAYO DE GOZAI MASU 
ケセン言葉  さようでござりァす SAYO DE GOZARI ASU 
相手が目上か目下か言葉を聞けばわかります ケセン言葉
標準語の「もう十時になります」で
相手が目上の人には 「もう十時になりァす」
相手が目下の人には 「もう十時になンます」
ごくわずかの音の変化で、その場に適応していく
言葉の選択の工夫 ケセン言葉
言葉が露骨になることをさける心配りから用いたはず
便所を「手水場」(ちょうずば)と言います
以下 準備中です

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日本初の彗星発見者
大正8年、日本で初めて彗星を発見したのは、陸前高田市矢作町出身の故・佐々木哲夫氏です。
佐々木哲夫氏は、明治28年陸前高田市矢作町生まれ 岩手師範学校に進学、卒業後一時小学校教諭となりましたが、大正8年、京都帝国大学理学部助手となりました。
就職してまもなくの大正8年10月25日午後7時30分、まさに運命的な出来事が起こりました。山羊座ビータ星の南約10度のところに すい星を発見したのです。しかも、それはわが国で最初の発見でもありました。すい星は「フインレーささきすい星」と名付けられました。
しかし、佐々木哲夫氏は すい星発見から2年もたたない大正10年2月2日、26歳という若さでこの世を去っています。

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むかしむかし
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