Back number Local corner


かんのん清水のカエル
 私のジョギングコースの一つに、盛岡市内から玉山村方面に抜ける裏通りがあります。このルートは、何でも江戸時代に作られた五街道の一つで奥州街道と呼ばれ、昔から重要な路線だったようですが、以前は交通量がほとんどなくジョギングに最適コースでした。
 しかし、信号を通らずに盛岡市内に往復できますので交通量が次第に増え、しかも非舗装ですから土埃がひどくて走れなくなり中断していたわけですが、最近ようやく舗装されましたので、ジョギングを再開したのです。
 そのルートの途中に清水が湧き出ています。ここは小さな清水ですから知っている人は知っているが知らない人は知らないのですが(当たり前ですね(^^;)、付近には、小野松一里塚や観世音があるためかんのん清水と呼ばれているのです。盛岡市の広報誌によれば、旧街道のころから旅人の渇きを潤していた貴重な清水のようですね。もちろん私も、ジョギングの途中で顔を洗ったりうがいをしたりと恩恵に服しております。
 ところで先日の出来事です。暑いので早めにジョギングを終えようとして、午前中に自宅を出発し、途中で観音清水に立ち寄ったところ、手水鉢の中に1匹の
カエルがいて、白い腹を見せて水の中を漂っていました。
 清水が手水鉢に流れ落ちるところは、小さな滝壺のようになっていますが、カエルの行動をよく見ると、その滝壺の落ちる水に巻き込まれては押し流され、そして鉢の縁に沿うように泳いで滝壺に戻っては又押し流されるのを繰り返しているんです。
 最初は、死んでいるか、あるいは水から這い上がれないのかとも思ったのですが実は違うんですね。手水鉢をさながら
流水プールに見立てて、水流のなすがままに翻弄されるのを楽しんでいるようなのです。身体の力を抜いて白い腹を出して気持ちよさそうに漂うんですよ。
 帰りに寄ってみたところ、くだんのカエルさんは、手水鉢の縁にはい上がって休憩中でした。その可愛らしい姿をどうしてもカメラに収めたくなり、自宅に帰ってデジカメをひっさげバイクで駆け戻ったのですが、時既に遅し・・、水遊びを終えたカエルさんは、どこかに立ち去ったあとでした。まったく惜しいシャッターチャンスを逃しました。

桜の名所展勝地
 北上市には展勝地という場所があります。ここは、県内有数の桜の名所として有名ですが、ツツジの名所としても知られていますし、オリエンテーリングのコース、アマチュア無線のフォックスハンティング(電波探知競技会)、みちのく芸能祭りの花火打ち上げ場所等にもなっているんです。
 この間、寄ってみる機会があったのですが、桜は、すでに終わりに近く、ツツジにはちょっと早い中途半端な時期でした。しかし、日曜日のせいか人出が結構あったため、少し離れた駐車場に車を止め、懐かしの陣が丘に登ったのです。
 陣が丘とは、展勝地の一角をしめる
高台のことですが、そこから北上川と和賀川の合流点や夏油高原スキー場等北上の風景がよく見えるんですよ。
 そして、約10メートル
くらいの絶壁があるのですが、その昔、岩壁の所々にハーケンが打ち込まれたまま残っていたのを覚えております。誰かがロッククライミングの練習に使ったんでしょうね
 また、ここのオリエンテーリングコースでは、アケビを見つけ取って食べたりした思い出もあります。
 それから、
みちのく芸能祭りの最終日には、ここの川岸から花火を打ち上げるのですが、一度だけ、打ち上げ場所から花火を見る機会に恵まれたことがあります。花火が頭上に上がるため、やたら頸が疲れ、しまいには地面に仰向けに寝転んで見ましたが、もの凄い迫力、表現不可能なほどのド迫力でしたね。思わずたまや、かぎやなんて時代めいた言葉を大声で叫んでしまいました。

何度目かでやっと覚えた冷麺の味
 皆さん、冷麺(れいめん)を食べたことがありますか? これは盛岡を代表する食べ物の一つですが、この度、特産とか本場等の称号が承認されたとのことです。今まで知りませんでしたが、特産を名乗れる資格は、規則で決められ今まで札幌ラーメン等9品目に限定されており、新たに許可されたのは16年ぶりのことなそうです。
 ところで、これが不思議な食べ物なんですよ。私が初めて食べたのは昭和50年のことですが、友達から美味いものを食わせてやると誘われ、盛岡市内の専門店に連れていかれました。やがて運ばれてきたものは、赤いスープと半透明な麺が入った白いドンブリです。その名のとおり冷たい麺であることはすぐ分かったのですが、一口食べてびっくりしました。スープの辛いことと麺の腰の強いこと・・・まるでゴムのように感じられ、なかなか噛み切ることができませんでした。誘ってくれた人には悪かったのですが、自分には合わないなあと感じたものです。初めて食べた人は、大抵そう感じるようですね。(^^;)
 しかし、その後何度か食べる機会があり、いつの間にか病みつきになってしまったのです。冷たくて辛いスープと腰のある半透明の麺は不思議にマッチしますね。特に、酒を飲んだ後には必ず食べたくなるんですよ。
歴史的なことはよく分かりませんが、冷麺のルーツは朝鮮に由来するようです。しかし、盛岡冷麺はもうまったく別物と考えた方が良いようですね。
 麺は、ある程度の太さがあって、そば粉などは含まれない透明感のある麺が最高ですね。スープもただ辛いだけでなく適度な甘さとこくが欲しいのです。又、トッピングにはスイカがよく使われますが、私はナシの方が好きですね。所詮、味は個人の好みの問題ですから、軽々しく美味いとかまずいとか批評はできませんが、東京の某店で食べた冷麺だけは、文句なしにまずいと断言します。黒くて細い麺と味のないスープ・・・酢が添えられてきましたが結局酢をかけないと食えないんですよ。一度盛岡冷麺を食べて欲しいものですね。

我が心の山早池峰山
 大迫町・遠野市・川井村の3市町村にまたがった山が
早池峰山です。標高1917m程度ですから大したことはありませんが、北上高地の最高峰、県内では岩手山についで2番目、東北でも鳥海山、岩手山、月山につぐ4番目の高山で、秀峰とも霊峰とも呼ばれています。
 おらえ(我が家)の山という感覚のため、あまり気にしたことも無かったのですが、その名を初めて意識したのは高校の時のこと。地元紙の紹介記事を読んだことがきっかけでした。そこでは
深田久弥さんの著書わが愛する山々の一節が引用されていたため、早速、文庫本を買い求めた記憶があります。
 早池峰山には、何度も登っているのですが、一番思い出に残っているのは、学生時代に親友と二人で登ったときのことです。かれこれ30年近くも前のことですから詳しいことは忘れましたが、一泊二日の行程を組んで宿を予約し、当日の早朝、バスで麓の地区(正式にはたけと読み、だけと濁りません。)まで行ったのです。
 当時は、バスも岳で終点となり、そこから登山口までの約5キロは歩かねばなりませんでした。私たちは、とにかく歩きに歩いて登山を済ませ、宿泊予定の某荘に着いた時はもうすでに夕方、疲労もピークに達しておりました。
 しかし、チェックインの時に聞かされた言葉は
予約は聞いていません。疲れ切った身体に追い打ちをかけるこの一言、ダメージは大きかったですね。私は間違いなく予約したのですが・・・、しかし見かねた宿の人は、大広間で良ければ、泊まって下さい。と言ってくれ、案内されたのは離れの大座敷、宿のおばさんも、ここなら相撲取ったっていいですよ。と言うほどでした。結局、相撲は取りませんでしたが、何十畳もの大広間にたった二人で寝たという体験は、後にも先にもこの時だけですよ。
 この時一緒に登った親友とは、高校の同級生なのですが、東京でコンピュータのソフト開発会社を設立した後、順調に業績を伸ばして代表取締役にまで昇任したのです。私も東京出張の都度、酒を酌み交わしていたのですが、平成5年2月、風邪をこじらせ亡くなりました。何でも、ドイツ出張からの帰国直後、体調を崩してしまい、あっという間に逝ったとのことです。享年40歳、お互い人生これからという矢先・・・人間の運命なんて分からないものです。
 

岩手の由来・伝説
 今回は、岩手県という名称がどこから生まれたのか紹介します。岩手の伝説に寄れば
 昔々、盛岡地方には羅刹(らせつ)という鬼が住んでいて、人々を脅すなど悪さを繰り返していました。困り果てた人々は、三ツ石の神にお祈りしたところ、神は鬼を捕まえ、境内にある大きな三ツ石に縛りつけたのです。
 降参した鬼は、
今後悪さはしません。二度とこの地方にはやってきません。と謝りましたので、神は、その約束のしるしとして三ツ石に鬼の手形を押させて逃がしてやったそうです。
 この手形を押したことが県名の起源となり、それ以来、この地方を岩手転じて不来方(こずかた=来ないという意味の当て字)と呼ぶようにもなったとのことです。
 
南部藩主の居城である盛岡城(現岩手公園)が、別名不来方城と呼ばれるのもここから来ていたようです。余談ですが、私の所属するアマチュア無線クラブの愛称もここから取ってこずかたクラブとしています。
 ところで、盛岡地方を追われた羅刹さんは、それ以後、悪さはしないと思いますが、その後どこに住み着いたんでしょうね?ちょっと気にかかるところです。

石割桜が満開です  
 盛岡市の名物のひとつ石割桜をご存じでしょうか? 盛岡地方裁判所の庭にあるのですが、大きな岩をまっぷたつに割って生えている樹齢500年以上の桜であり、とても珍しく、何でも大正時代に国の天然記念物に指定されているものなそうです。
 4月22日の昼休み、天気があまりに良かったのでデジカメ片手に行って来ましたが、今が丁度満開で本当に見事でした。かなりの見物客で賑わっていましたし、気候も良かったせいか夜になっても客足が衰えませんでしたが、場所柄か流石に宴会はやっていませんでした(^^;)
 なお、石割桜は、先日地元TV局によって朝のローカルニュースで全国に紹介されておりま した。
 ところで、盛岡には他にも岩手公園という桜の名所がありますが、散ってしまう前に見物しようと、夕方に有志で花見に行って来ました。 30分位しか時間が取れなかったのですが、同伴者は花見慣れしたもの、どこからかワンカップと裂きイカを調達してきたのです。ほんの一時の花見でしたが、ワンカップをちびりちびりやりながらの桜見物は格別です。まさに春爛漫の花見酒でした。

浄土ヶ浜よさらば (H11.3.27)
2年間の単身生活が終わりました。宮古勤務は2度目で通算5年半になりますが、今回は、新しいアパートで自分の部屋から海が見えましたし、本当に快適でした。2度とこのような好条件のアパートに住むことは出来ないでしょうね。宮古随一の景勝地浄土が浜も車で20分程度ですので、ゆっくり散策してきましたが、自然の織りなす景観は本当に素晴らしいですよ。今度は観光客として訪れてみたいと思います。
 心残りだったのは船釣りが出来なかったこと。一昨年に山田湾で1回やっただけでした。この時は早朝から夕方まで船の上で頑張り大物を狙いましたが、結局釣果はあまりあがらず疲労だけが残りました。帰ってからのご苦労会もやたらアルコールの利きが早かったことを覚えています。
 去年も計画はあったのですが、予定日は天候が悪い等でチャンスに恵まれず1度も出来ませんでした。海に住んでいるのでいつでも出来ると思ったことが油断でした。何とかもう一度行きたいものですね。

鞭牛和尚の作った道 (H11.1.10)
私が単身赴任先の宮古市から盛岡市の自宅まで帰るには国道106号線を利用します。同国道は通称宮古街道とも呼ばれ道路総延長は約95キロメートルあり、内陸と沿岸を結ぶ重要路線ですが、北上山地を横断するため、昔は人馬の往来すら困難な街道で、毎年多くの旅人が犠牲となっていたそうです。
 さらに、ちょっと雨が続くと通行不能になり食料の供給も途絶え、多くの餓死者が出ていたのですが、こんな状況を何とかしようと牧庵鞭牛(ぼくあんべんぎゅう)和尚が単身で道路改良工事に取りかかり、数多くの難所を開削して現路線の基礎を作ったと伝えられています。
 宮古街道は山間部を通るため、気象条件も場所によって著しく変化しますし、見通しの悪いカーブの連続で、時折、無理な追越車両にヒヤッとさせられる等スリル満点 (^-^;;) の路線なのですが、この道路のおかげで私は何とか自宅へ帰ることができるのです。
 なお、鞭牛和尚は和井内村(現下閉伊郡新里村)出身で、その半生を道路開削に捧げ、約30年間かけて宮古街道をはじめ南部藩内100里にも及ぶ道路を切り開いたお方であり、その恩恵に浴している私としては足を向けて寝られません。


おいら岬の灯台守は (H10.12.26)
 岩手県宮古市は本州最東端の地ですが、正確に言うなら重茂半島の突端にあるトドヶ崎(トドは魚片に毛と書くのですが、外字で作ったらバケてしまいました。)がその場所となります。ここには「日本の灯台50選」の一つに選ばれたトドヶ崎灯台があるのです。
 その昔、ここの灯台長夫人であった田中きよさんが書いた灯台守の体験記「海を守る夫と共に20年」を元にして作られた映画が木下恵介監督の名作喜びも悲しみも幾歳月でした。
 本州最東端の感動を家族にも教えたくて、昨年10月に家族が来た時、皆で行くことにしました。しかし、この地に行くには途中で車を降り、山道を片道約1時間(4km)も歩かなければなりません。これを知った子供達は買い物の方がいいとごね出す始末・・・
 何とか説得して出発したものの、子供達は延々と続く山道にブーたれることブーたれること。ところが、目の前に、高さ東北一の白亜の灯台と紺碧の太平洋が開けた途端、不満も疲れも吹っ飛んだようでした。
 先日、天気が良かったので約1年ぶりに行ってみました。時季はずれのため一般観光客はいませんでしたが、釣り人達がバイクで来ていました。
 トドヶ崎沖は船の往来が多いので有名ですが、大物が釣れることでも有名のため、今の時期は断崖からの投げ釣り客の天国のようでした。

窓から見える海 (H10.12.26)
 まず手始めは、名所ならぬ私のアパートを紹介します。宮古湾のすぐ近くにあり、部屋は3階、リビングから海が見えるのです。
 夏の季節には、青い海にヨットの白い帆が浮かび、とてもきれいですよ。 今年こそは、ベランダで海を見ながらゆっくりとビールでも飲みたかったのですが、宮澤賢治いわく寒さの夏のため実現できませんでした。 今年の正月に家族が来た時、皆で釣った「チカ」がまだ冷凍庫に入ったままになっています。 単身赴任ではなかなか減りませんね。


ラサの煙突 (H10.11.3)
  日本一のラサの煙突を紹介します。 この煙突は、ラサ工業が銅精錬のため昭和14年に建設したもので、地上高は160m、コンクリート製では日本一なそうです。 その高さゆえ、てっぺんには金の避雷針があるとか、排出される塵には金が含まれているとか伝説が生まれたほどでした。 今では容易に近づけませんが、昔、根元まで行って見上げたところその巨大さにめまいがした思い出があります。日本一のラサの煙突も、いつの日か取り壊される運命でしょうが、宮古市のシンボルとしていつまでもそびえていて欲しいものですね。


戻る Top IUD F1 F2 Local