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CWオペレータは憧れの的だった エレキーも難しい編
 HF帯にQRV以来、縦振り式電鍵(ストレート・キー、米つきバッタ)を使用していたのですが、次第にエレキーが必要になってきました。本当は、ゆったりペースの手打ちCWが大好きなのですが、今時のコンテストやDXペディションはとてもハイスピードです。パイルの際、もたもたとコールして各局さんに迷惑をかけられませんので、エレキー導入に踏み切ったのです。(ちょっとオーバーですね。)しかし、考えてみればポンコツリグにローパワー・・・パイルは最初から諦めていましたので取り越し苦労だったかもしれません(^^;)
 エレキーを使うにあたっては、OMさんのアドバイスもあって、左手でパドル、右手でペンを持って効率的に使いこなそうと意気込んだのです。ところが実際にやってみたところ思うようにパドルをコントロールできず、早々にギブアップしてしまいました。利き腕の右手を使ってさえミスが多いのに、左手ではほとんど使いものにならなかったんですよ。
 ペディションでもコンテストでも自分のコールをミスしたら致命的ですし、私のエレキーは、長短点メモリーしか付いていませんので、コールサイン等のメモリーができず苦労しております。 また、打ち間違いがあまりにも多いのはパドルのせいかと考え、ベンチャーに取り替えてみたのですが、結果は同じでした。結局、パドルの問題ではなく技術のせいなんですね。それにしても何で上手く打てないのでしょうか?

CWオペレーターは憧れの的だった
 子供のころ、両耳レシーバーをかけたCWオペレーターがとても格好良く見え、いかにも無線技士のように感じました。当時読んだ伝記物にも、若きエジソンが電信(この頃は有線)のベテラン・オペレーターと勝負する場面がありましたし、CWは、理屈抜きに格好良かったのです。
 当時、少年向け雑誌に載っていた
電磁石利用の電信機の工作記事を見て自作したこともありました。カマボコ板を台にして細長く切ったトタンをくっつけた電鍵と釘にエナメル線を巻きつけた電磁石式の受信装置を組み合わせた簡単なセットです。カマボコ板は少々臭いましたね(^^;)
 そんなこんなで、小学校5〜6年ころにはモールスコードも覚えたわけですが、Aはアレー、Bはボータオシ式(当時流行の合調法)で暗記したため、送信は簡単にできたものの受信には手こずりました。結局、語呂合わせの暗記方法は、CWの場合、逆効果で上達も遅くなることがよく分かったのです。
 和文を覚えるときは、その反省点を踏まえ、イトー、ロジョーホコー方式は止めてオーソドックスな音感式で覚えました。これは苦しかったですね。昭和53年1月1日から暗記を始めましたが、欧文に比べて符号が長いため手こずり、何とか毎分50字を聞き取れるようになったのは、その年の10月のことでした。
 1st 和文QSO記念日は、昭和53年10月7日のこと。冷や汗だらけで疲れました。以後7MHzで順調にロングQSOを楽しんでいましたが、DXの方に興味を持ち始め、和文から遠ざかってしまいました。さらには長期間のQRTが重なり、10年後に復帰してみたら、欧文はともかく和文の方はまったくついていけませんでしたよ。


高いところは嫌い、されどタワーは欲しい
 タワーを建てる目処がついたのは平成5年のこと。しかし、高いところが苦手な私にとって、ちょっと問題がありました。その昔、立派なタワーを持つ某OMさん宅を訪ねたとき、登ってみなさい。と持ちかけられ気軽に登り始めたまでは良かったのですが、手が滑ったら一巻の終わりとビビッてしまい、10mほど登ったところでギブアップしたことがあったのです。OMさんからは、もう止めたの?と笑われましたし、そんな私がタワーのてっぺんに登ってANTを調整するなど不可能な話なんですよ。
 そこで、当初はクランクアップ・タワーも考えたのですが、予算オーバーでとても歯が立たず、結局、クリエイト・デザインのKT20R+エレベーターに落ち着きました。もちろん、タワーの組立作業はプロにお任せしましたが、私も基礎の穴堀りを手伝いましたので、自分で建てたつもりになっています(^^;)
 さすがエレベーターの威力、ANT上げや調整は自分一人でできますし、風が強いときは下げれば安心等本当に便利ですね。しかし、ウイークポイントは手回し・・・ はじめの頃は一気に巻き上げることができたのですが、最近は何度も腕を休めなければならず億劫です。やはり年ですかねえ。
 話は戻りますが、ある飲み会で、ANTのブーム上を手放しで歩いたというOMさんの話を聞きました。高さ数10mのタワー上でよくそんなアホなことができますね。いったいどんな神経しているのでしょうか

初めてのDXアワード
 DXを始めた頃、最初に憧れたのが6大陸と交信してカードを得るWACでした。南米やヨーロッパ等は、割と簡単にQSOできてコンファームできたのですが、やはり最初はアフリカで手間取ってしまい、カードが6枚そろったのは昭和53年のことです。
 代行申請により約1ヶ月程度で、1978年9月6日付けのWACを受領できましたが、DX初心者用とはいえ初めてのDXアワードは格別でした。
 そして次はDXCCWAZにトライしましたが、ローパワーと3エレ程度では思うようにニューをゲットできませんでしたし、さらには転勤等が重なり、カントリー数は78で止まったまま10年ほどQRT状態となってしまいました。
 やっと平成5年にDXを再開し、翌6年には何とか念願のDXCCを申請することが出来ましたが、代行申請ではなくカードをARRLに送って直接審査を受けねばならず、大切なカードをアメリカまで送ることに不安を覚えました。
 しかし、無事にカードは返送され、審査で2カントリーほどはねられましたが、約4ヶ月でアワードも受け取ることが出来ほっとしましたよ。WACとDXCCは縁取りのデザインが色違いのFBなもので、並べると綺麗ですね。(WACはその後デザインが安っぽくなってしまい残念・・)
 WAZは、難関のゾーン33をゲットできたので、いざ申請・・とカードを点検して愕然としましたね。VE2が何枚もあったので楽勝と思っていたゾーン2が無かったのです。(^^;) その後も転勤でHFはQRTとなりましたので、現在に至るまで39ゾーンのまま未完成です。

落成検査では電監技官もびっくりした周波数精度
 世界の101を使い始めて間もなく、トリオ(ケンウッドは当時輸出専用のネーム)から
TS−820が発売されました。初の周波数デジタル表示がセールスポイントのリグ、今では当たり前のものですが当時はとても新鮮に見え、101を下取りに出してすぐに購入したのです。
 以後、ANTも上げ直して順調にQRVしていたのですが、昭和54年の秋、仕事の都合で引っ越しせざるを得なくなり、それに伴い暫くQRTしていたこともあって局免の更新を忘れており、切らしてしまったのです。
 どうせ新規開局になるならパワーを移動局上限の50Wにアップしようと考え、東北電波監理局に落成検査の申請を出して待っていたところ、昭和55年6月、若い郵政技官が一人でやってきました。書類関係の審査後、リグの点検になり、指示された周波数で試験電波を出し、いろいろ測定していましたが、TS−820の周波数精度の高さには、技官の方もいやー!ものすごく正確ですね!と驚いておられました。なお、RJX−601のアナログ表示のアバウトさにも驚かれ、52Mc以上の周波数は使わないで下さいね。と注意された時は冷や汗が出ました。

転勤族ではパワーが出せないせめて資格だけでも
リグはその後、FT−101ESからトリオの
TS−820Vに変わり、大家さんの許可を得て下宿の屋根にルーフタワーを乗せ、TA−33jr(右の写真)を上げて本格的にDXを始めました。4〜50カントリー(エンティティー)は簡単に増えたのですが、いくらCWとはいえ10Wでは限界があり、次第に悔しい思いをすることが多くなりました。
 転勤族のためハイパワーは夢のまた夢。せめて資格だけでもファーストクラスになれば電波の飛びが気分的に違うだろうと考え、昭和52年に2級を取り、翌年の元旦から和文を覚えにかかりました。
 これが大変な難行。当時、欧文については毎分80字以上でQSOしていましたのでまったく楽勝でしたが、和文の50字には本当に苦労させられました。そして、昭和53年10月に1アマの国試を受けた時も、和文の受信がボロボロ抜けてしまい、ダメかと諦めていたところ何とか合格通知を受け取ることが出来たのです。(本当にうれしかったですね。だけど、飛びはその後も変わりませんでしたが・・・)
 しかし、時代の要請なのか、苦労させられた和文も1アマの試験から無くなってしまいました。和文があったればこその1アマであり、和文が必要かどうかの問題ではなく、困難に挑戦するというところに1アマの存在価値があると考えるのは苦労した者のひがみでしょうか?

HFやらなきゃハムじゃない しかしリグはなにがいいの?
 昭和50年10月、北上市にQSYとなった際、憧れだったHFをやってみようと思い立ったのですが、肝心のリグは何が良いのかさっぱり分かりませんでした。というのも、SWLをやっていた当時はAMかCWの世界だったのですが、ブランクの間にSSB全盛となっており、まさに浦島太郎の心境だったのです。
その時、神の啓示のごとく出会ったのが矢口高雄さんの釣りバカたち第3集でした。その中の「アカブチ」という物語(右の場面)に出ていたのですよFT−101が・・・これでリグは決定しました。迷わずヤエスのFT−101ES(BSは無かった。)を購入したのです。なお、101ESはハンドマイクがオプションだったため、マイクは意地でも買うものかと天の邪鬼精神が出てしまい、しばらくの間CWオンリーでQSOしたおかげでCWの腕が上がり、2級も楽に合格できたのでした。
 そして、21MHzでWのノビスとQSOしたことをきっかけにして、DXの面白さに目覚めたのですが、同時に、転勤族ではアンテナとパワーに限界があることにも気づいたのです。

開局当初は50Mcのローカルラグチュー専門だった (H10.12.6)
 岩手に帰ったらすぐ開局しようと準備し、就職直前
の昭和50年2月末、岩手県花巻市においてアマチュア無線局「JH7IUD」を何とか開局できたのです。開局時のリグは、帰省当日に秋葉原で購入してきたナショナルのRJXー601(当時の6mベストセラー機、ジーンズ・ログのおまけ付き)しかありませんでしたので、50MC(まだHzではなかった。)FMオンリーで、ローカル・ラグチューを楽しんでいたのです。開局後しばらくの間は、乾電池を入れ内蔵ホイップを伸ばしてコタツの上に置いたり、チャリンコ・モービルで移動する程度の運用でお茶を濁していたのですが、5月のEスポ・シーズンともなると、全国からの入感局をコールしても応答率が極端に悪く、我慢できなくなりました。そこで、安定化電源を購入したり、物干し用の竹竿に3エレ八木を乗せてローテーターならぬ手回しのハンドテーターにする等格段にグレードアップ?し、いっぱしのアマチュア無線家気取りでいたのでした。

ハムへの憧れは小学6年からだった (H10.11.28)
 私がハムに興味を持ったのは、小学6年生の頃ですから今から約35年も前のこと。真空管がST管からMT管に変わりつつあり、コールブックも今のものよりかなり小型だったのです。モールス・コードを覚え、0−V−2等を自作し、JARLから準員ナンバー「JA7−2361」をもらいSWLをやっていましたが、
当時、リグは自作が当たり前で、RXは高1中2、TXは807シングルのセパレート、ANTはDPか逆L等がスタンダードでした。もちろん、モードはAMとCWぐらいしか知りませんでしたし、メーカー製リグはキットと完成品とに分けて2種類が売られていました。(自作用のトリオのコイルパックやT−11、Q5erキット、リードのケース等を通販で買いました。)なお、SWLはやっていたものの、ライセンスは取得できないまま中学・高校と過ごしてしまいました。当時は今のように講習制度が無く、隣県の仙台市まで大旅行?しなければ受験できませんでしたし、試験もオール記述式だったのです。そして、大学在学中も空手と映画と麻雀と酒の生活に浸り、無線のことは ほとんど忘れていたのですが、岩手に帰れば免許が取りづらくなると気づき、卒業を目前にして、電話級と電信級を取得しておいたのでした。(モールスは覚えていたので楽勝でした。)


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