甲子園狂想曲、「ママ」章

2004年3月24日

 結局のところこの甲子園出場を一番喜び、一番舞い上がっていたのはママのような気がする。おじいちゃんの具合が悪くなって一気にお出かけができなくなった。家族旅行もしばらくは無理だろうとおもっていた矢先の朗報。
とてもとてもうれしかった。
出場が決まってからというもの一日一回は甲子園の話が出た。
いつも通る一高グランド周辺も報道陣やら見物人で混み合っていた。
「ねえ、選手達の親ごさんはどきどきしないのかなあ。」 といつもパパに話していた。ママだったら絶対だめだ。
子供達のピアノコンクールやサッカーの試合など一番先に神経性胃炎をおこしてしまうのがママ。
おにいちゃんがサッカーでPKのときなどその場を逃げ出している。
専業主婦で生活の苦労も人との大切なお付き合いもなく、時間だけが山ほどあるママはいつも余計なことまで考えてしまう。
パパは「ママみたいに考える人ばかりじゃないんだよ。心配するんじゃなくてそれを楽しむ人のほうが多いんだから・・・」そういうけれど・・・
当日も2回裏には胃が痛くなって点を取られるとどきどきしどうしだった。
試合が終わったら急に今までの疲れがどっときてパパとは別行動でホテルに直行した。
右も左もわからず外にも出れずホテル内でお姉さん、義妹、姪と夕食を食べたまではよかったが・・・夜中に具合が悪くなって大変だった。
一人苦しむママの両隣でお兄ちゃんとパパはおおいびきをかいていた。
次の日の大阪城はそれはそれは悲惨でもう、へなへな状態。
試合にも負けてしまったし、天ぷらにも負けてしまった。
けれど、みんなで応援に行けたこと。
懐かしい顔をいっぱい見られたこと。
大声で応援歌歌えたこと、49年ぶりの甲子園、あと50年待ったらママは死んでしまっているし22世紀枠までには96年もあるし・・・・
いくらお金を積んでもできない旅行をさせてもらってみんなに感謝したい気持ちだ。
応援に行けなかった東京在住の友達が電話をくれた。
「応援席をもっと撮して欲しかったのに・・・」
確かにOBはみんなそう思っただろう。今度は一緒に行くことを約束した。
20歳と21歳で相次いで亡くなってしまったママの親友達がいる。
彼女達が生きていればママと一緒になって大声を張り上げていただろう。
そして我が家で唯一のお留守番OBのおじいちゃん、甲子園に行ったら喜んだだろうなあ。