平成10年度 日本・太平洋島嶼国若人交流計画(派遣事業)
ナウル共和国・ミクロネシア連邦訪問記 1998.7.20 - 28


はじめに…

 それは、1998年1月末のある寒い朝のホームルームでの担任の一言から始まった。
 平成6年、当時の村山首相の談話の中で発表された「平和友好交流計画」の一環として外務省が行なっている「日本・太平洋島嶼国若人交流計画」の協力自治体に、我が陸前高田市が選ばれ、我が高田高校から5名ないし6名の生徒を、南太平洋の島嶼国に"無償"で派遣するというのである。
 当時、その前年の夏にオーストラリア・シドニーで行われた、ある国際イベントのビデオの編集が大詰めを迎え、超多忙だった私は、そんな"おいしい話"に興味を示すこともなく、ただ何となくぼーと、聞いていた。それから数日が過ぎたある日。当時の担任・S先生に申し込んで見てはどうか?と薦められたが、「興味はあるが、自分だけが何度も海外に行ってばかりだと周りから白い目で見られるでは」と、一度は断った。その後何人かの先生に同じ事を薦められ、結局ダメ元で申し込んでおいた。
 それから約4ヶ月が過ぎ、忘れかけていた頃、正式に派遣国と日程がほぼ決まったとのことで、再度希望者の募集をするという。その要項によると今年度の派遣国は、南太平洋の赤道直下の国・ナウル共和国とちょっと日本よりのミクロネシア連邦の2カ国に7月下旬に約10日の日程で派遣するとのことである。ミクロネシアという国名はよく耳にするが、ナウルという国名が引っかかり、早速。学校の図書館にある"国際情報辞典"などで調べてみたが、ナウルについて書いてあるのはたったの1ページ弱。それではと、その夜、自宅のパソコンでインターネットでも検索してみたがヒットするのは外務省の情報など限られてしまうのであった。その後もいろんな手段を試してみるものの結果はさっぱりであった。(このことが後にこのHPを作るきっかけの一因になったのだが…。)一晩考えた末、無性にナウルに行ってみたくなり、再度応募することにした。
 この時点で約30人の申し込みがあったそうである。その後、秋に招聘する際のホストファミリーを条件としたところ、一気に希望者が7人にまで減り、この中から5人に絞った結果、普通科・大友重隆、紺野暁広、熊谷千鶴子、須賀美佐子、情報処理科・菅野梓と、引率の加藤純先生(英語科)の6名が派遣されることになり、派遣に向けての準備が始まった。
 ところが、これが波瀾の日々の幕開けになるとはこの時、知る由もなかった。

 


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