はじめに

 私は、人事管理論を専攻する関係から、人間の「働きがい」や「生きがい」と呼ばれるもの、あるいは「幸せ感」について考えることが少なくない。とりわけ、最近では、各地で「生きがいのマネジメント」というテーマで話をして欲しいと依頼されることが増えており、この命題の重要性がますます強まりつつあることを痛感している。

 元来、私は「組織文化」すなわち「構成員に共有されている価値観」の研究者であるため、経営学の枠組みの中で、価値観の転換による働きがいの向上という観点から考察を進めてきた。つまり、「人間の価値観」をキーワードに、企業組織の革新を、経営者や上司による、一種の「望ましいマインド・コントロール」としてとらえてみたのである。

 ところが、その研究過程で私は、経営者や管理職の方々が、ある共通した問題意識を抱いていることを発見した。それは、「労働意欲を高める様々な方法を実施してみたが、どれも表面的な技法にすぎないため、せいぜい、従業員に仕事が好きになったと錯覚させただけでがなかったのか」という危惧である。そのため、彼らは、何らかの方法で従業員の価値観を深層から揺さぶり、既存の思考の枠組みを根底から覆すことによって、単なる働きがいの向上に留まらない本質的な変化を生じさせたいと模索しているのであった。

 そこで私は、ある個人的体験を契機に知った特殊な情報について、試みに、各所でそれとなく話しをしてみることにした。その結果、その情報を伝えた人々が、目を丸くし、時には涙を浮かべながら、真剣に聞き入ってくれることを発見した。ある経営者は、「それこそが私の求めていたものです。社員に何をしてもらえるかではなく、社員に何をしてやれるかという、すっかり忘れていた問題意識がよみがえってきました」とうなづいた。また、ある管理職は「ぜひ、部下ばかりではなく家族や知人にも教えてあげたい」と目を輝かせ、ある学生は「これで何も怖くなくなりました。これからは下宿に帰って一人きりでいても、寂しくありません」とよろこぶのであった。

 その特殊な情報とは、「死後の生命」や「生まれ変わり」に関する近年の科学的研究成果の内容であった。私は、人々にその情報を伝えることによって生じる効果の、あまりの大きさに驚いた。その情報を、ただ聞き手の先入観を無くしながら正しく伝えるだけで、人々は、職場における働きがいの意味をはるかに越えた、人生全体の「生きがい」や「幸せ」の意味について、根本的に自問し始めるのである。それまで、いかなる価値観変革の技法を駆使しても頑として揺るがなかった各人の自我が、劇的に固い殻を脱ぎ捨ててゆく光景を目前にするたびに、私はそこに何か偉大な力の介在を感じないではいられなかった。

 その後、私は、これらの情報を潜在的に求めている人々が、世の中にいかに多いかという現実を思い知らされることになった。とりわけ、大きな試練に直面している人や、突然の不幸に見舞われた人、挫折感に打ちひしがれている人ほど、「死後の生命」や「生まれ変わり」に関する科学的知識を、大いに心の拠り所としていることが判明してきた。

 大学教官という立場から、人々の相談を受けることは数多い。しかし、恋人に去られた女性、志望校に落ちた受験生、希望企業に入社できなかった四年生に対してさえも、一個人として差し延べる手だては限られている。ましてや、障害を持つ方やその御両親、事故で手足を失った若者、夫に先立たれた新妻、不治の病に冒された患者さんたちを、ほんの小さな存在にしかすぎない私の力で、どうやって元気づけることができるだろうか。

 もちろん、「元気を出して頑張れ」と激励することはたやすい。けれども、生きがいを見失った人々は、「生きる力の源泉」そのものを喪失していることが少なくない。いわば電池の切れた装置が、スイッチを入れても動かないのと同じ状態であり、ただ「いつまでもスイッチを切っていないで入れてみろよ」と声をかけるのみでは、抜本的な効果は望めないのである。このような、生きがいの源泉を喪失した人々は、周囲のどこにでも存在する。企業の中にも、学生たちの中にも、家族や親族の中にも。そして、今日は希望に満ちあふれている親友が、もしかすると、明日には全てを失い倒れてしまうかもしれない。

 現在、私は、「死後の世界」や「生まれ変わり」に関する科学的研究成果について聞きたいという希望があれば、どこにでも駆けつけ、もちろん無償で、これらの情報を丁寧にお話しすることにしている。その際には、まず、トロント大学医学部精神科で主任教授を勤めるジョエル・L・ホイットン博士の、次の言葉を紹介することから始める。

 「生まれ変わりが真実だという証拠については、そのほとんどが状況証拠ではありますが、きわめて有力なものがそろっている現在、理論的にこれを認めることに、特に問題はないと思われます。どうか皆さんも、私と同じ結論に到達されるようにと願っています。すなわち、私たちはかつて前世を生きたことがあり、おそらく、来生をもまた生きるだろう、そして今回の人生は、永遠に続く鎖の、ほんの一部でしかない、と。」

 この言葉に続けて、死後の世界に関する近年の事例を幅広く分析し、肯定論者と否定論者の主張を客観的に検討したジョージア大学教授のロバート・アルメダー博士が、1992年に下した次のような結論を紹介することにしている。

 「我々は現在、人類史上初めて、人間の死後生存信仰の事実性を裏づける、きわめて有力な経験的証拠を手にしている。このことが、哲学や倫理学における今後の考察に対して持つ意味は、きわめて大きい。人間が死後にも生存を続けるという考え方は、誰にでも認められる証拠によって事実であることが証明できるばかりか、誰にでも再現できる証拠によって、事実であることがすでに証明されているのである。」

 彼等が結論づけたように、もしも「死後の生命」や「生まれ変わり」が事実であるならば、我々の人生観は、どのような修正を余儀なくされるだろうか。日常の小さな不満はどのように無意味化され、何の価値も持たないように見えた不幸や挫折が、いかなる重要な意味を帯びてくるのだろうか。本稿では、「死後の生命」や「生まれ変わり」に関する近年の科学的研究の成果を紹介することにより、その内容が我々にとって、他の何にも代え難い、強力な「生きがいの源泉」となる事実を示していきたい。

 なお、本稿では、いわゆる霊能者や宗教家、民間のセラピスト(治療家)やジャーナリスト(報道関係者や評論家)、あるいは文化人や芸能人が書いた文献は、一切取り上げない。それらの著作の中にも、読み物として優れたものがあることは否定しないが、あくまでも学術的かつ客観的な立場を守るために、名の通った大学の教官、博士号を持つ研究者や臨床医の研究のみから引用し、一般人の体験者自らが本名で記した具体的記録を若干加えながら構成する。しかも、決してそれらの研究を盲信するわけではなく、信頼度が低いと判断される文献や、実証的でなく主義主張の水準にとどまっている文献は、たとえ興味深い内容であっても容赦なく排除した。

 また、私は家族も含めていかなる宗教にも帰依しておらず、正月には神社に詣で、盆には寺に参り、クリスマスにはツリーを飾る、典型的な「雑宗教」の日本人として生活している。ある時に個人的な超常体験に遭遇して以来、いわゆる「魂」の存在は具体的な実感として認識しており、本稿も「魂」たちの強い勧めに勇気づけられて記すものであるが、私自身や本稿の内容は、いかなる宗教団体とも全く関係がないことを重ねて強調しておきたい。

 


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