ショートストーリー
日常のなかにある違常、見慣れた風景に横たわる異空間の割れ目、平凡な時間の中に潜む不条理の世界が、あなたの背後でじっと待ち構えている。音も立てずに獲物がかかるのを、いまもじっと待っている。
mystery-2
c h a i n.
1.


それはもう、はじまっていたのかもしれない。

さわやかな秋空の下、三井祐子はオフィスビルに囲まれた公園のベンチで、いつものとおり一人テイクアウトのランチを食べながら雑誌を読んでいた。
月刊MYSTは、M市の地元の出版社が発行している生活情報誌で、県内のさまざまな話題や情報が、編集者独自の視点で紹介されていた。毎回興味をそそる特集が組まれ、他のタウン誌にはない斬新な切り口が祐子にはお気に入りだった。
小春日和の穏やかな昼下がり、鳩の群に混じりながらくつろぐOLやビジネスマンの笑い声が、噴水の音と重なりほどよいアドリブとなって流れてくる。オフィスビルの人材派遣会社に勤めるOLのささやかな幸せの時間だった。
どこからか薔薇の甘い匂いがゆったりとした風に運ばれ、祐子の鼻をくすぐった。


私は雑誌から目を上げた。
「あら?」
薔薇の香?そんなはずはない。いまは秋なのだ。誰か香水の匂いをまき散らしてそばを通り過ぎたのかしら。そう思って辺りを見回したが、人の気配はない。
「気のせいかなあ?」
嫌悪感をもようすような匂いではなく、どちらかというとホッとする甘い香りだったので、それ以上は気にとめずふたたび雑誌に目を落とした。

私はこのひとときがとても好きだった。昼休みにこの公園のこのベンチでゆったりとした時間を過ごすと、なんとなく幸せを感じた。近代的な造形見せる公園には、パブリックサインやモニュメント、ベンチなど、すべて全体のイメージを損なわないように統一されたデザインで構成されている。
でも私の指定席は、この場所には似合わないアンティーク調のモダンなデザインのベンチである。座の部分はチーク材、脚はアラベスクを施した青銅製、両側の脚を橋渡しするようにゆったりとアーチを描いてつながれた3本の鎖状の背もたれ。どことなく座りにくそうなこのベンチだけど、私は気に入っていた。

〜〜〜♪〜〜〜

携帯メールの着メロが鳴った。
同僚の佐浦ナツミからだ。
<まだ公園?(^_^; もうすぐ会議、はじまっちゃうよ(-_-)>
そうだ!今日は1時から商品企画室とのブレストがある日じゃないの。

祐子の会社は、中堅化粧品メーカーで、20代〜30代の女性をターゲットにした新商品を開発中だった。庶務課の祐子たちも、一般OLの声を新商品の開発に反映させるため、月に一度、新商品の開発会議のメンバーとして参加していたのだ。今日は、その試作品ができあがってくる日で、祐子もナツミも楽しみにしていたのだが、公園でのユッタリとした時間の流れが忘れさせていたのかもしれない。

祐子は携帯の時計を見た。12:53pm。
「急いで会社に戻ればまだ間に合うわ」
<サンキュー(^_^;>と、
ナツミにメールのレスを入れ、ベンチから腰を上げた。

そのとき、またあのバラの香りが祐子の鼻先を通り過ぎていった。 スウーッと、心地よさと無力感に身体が包み込まれたように、意識が遠ざかった。 傾く身体を支えようと、とっさに背もたれのチェーンをつかんだ。 一瞬、シュッと噴水の音が止まった。
「プチッ」と頼りない音がして、チェーンが切れた。
あっ、どうしよう。
祐子は少し戸惑いながら、あたりを見渡した。 いつもの通りの風景に、いつものように穏やかな空気が漂い、 取り残されたように、誰も祐子に気づいていない。
早く戻らなくっちゃ。
わずかな罪悪感と後悔を残しながらも祐子は、 誰にも自分の存在を気づかれないよう、ゆっくりと、オフィス街へ歩きはじめた。そして徐々に足を速め、最後は駈けるようにして公園を後にした。

閉まりかけていたオフィスのエレベータに滑り込むと、5〜6人のビジネスマンやOLが訝しそうな視線を投げかけた。祐子は少しかしこまりながら、16Fのボタンを押した。 肩で息をしながら、握っていた手の中に違和感を覚えた祐子は、
「あっ」と小さく声を漏らした。
開くと、繋ぎ目が緩んだ鎖が1個、残されていた。



2.

祐子の小さな驚きに、つかの間のエレベーターの同居人たちはチラリと目を向けたが、特に気にする風でもなく、無言のまますぐに目線をエレベーターの回数表示に戻した。
彼らに気づかれないように祐子は、その鎖を少し眺めながら首をひねった。
あのベンチの鎖だわ。そっか、この繋ぎ目が切れて外れたのね。でもどうしてこんなもの握ってたのかしら?
チーンッ
16階のドアが開いて。
祐子は鎖を無造作にポケットに入れながら会議室へ急いだ。

少し緊張しながらドアを軽くノックして開けると、何人かがこちらに目線を向けたが、ほとんどのメンバーは各人の席に置かれた資料に目を落としていた。まだ2〜3席空いている。
「遅くなりました。」
まだ遅れている人がいるんだ。と少しほっとしながら軽く会釈をして会議室に入ると、ナツミがテーブルの下で手を振った。
急いでナツミの隣の席に着くと、
「これで、庶務課の3人は揃いましたね。まだ全員揃っていない課もあるようですが、そろそろはじめましょうか」

営業部の課長の隣で資料をチェックしていた企画室の木崎チーフが、全員を見渡すように言って立ち上がった。
企画室の木崎はまだ36歳と若いが、この会社の商品の企画開発から広告宣伝までとりまとめる重要なポストに就いていた。服装のセンスもさり気なくお洒落で、言動もあか抜けていたし、5〜6歳は若く見えた。しかも独身とあって、祐子やナツミの庶務課をはじめ会社のOLたちの間ではしばしば話題に上った。それに引き替え隣に座っている営業部の近藤課長は34歳と、木崎より若いのに老けて見えた。ダジャレ好きでセクハラまがいの言動は日常茶飯事の典型的なオヤジタイプだった。いつも営業の数字のことしか頭にないようで、毎日のように営業成績のことで部下の営業マンたちを怒鳴り散らしていた。さらに商品開発室にまで「もっと売れる商品をつくれ!」と怒鳴り込む始末だった。

「今日は、みなさんお忙しいなか、7回目の新商品開発会議に出席いただきありがとうございます。資料にもありますように、前回までのみなさんのご意見や、インターネットでのアンケートなどをもとに、新商品のテーマを2つに絞り込みました。後ほどこの2つのテーマに沿った試作品とパッケージデザイン案をみなさんにご検討いただきたいと思いますので、よろしくお願いいたします」
木崎が腕を組んだまま座っている近藤課長をチラリと見て、
「近藤課長の方から何か補足はございますか」

え〜?課長の話はいらないよ〜。どうせ話の内容はいつもの通り「売れる商品をつくれ」か、自分の自慢話かに違いないのだ。私はナツミと顔を見合わせた。

「ぶふんっ」
下品な咳払いをしながら立ち上がると、テーブルに両手をついて甲高い声で話しはじめた。
「営業部の近藤です。諸君も知っていると思うが、いま我が社には新しいヒット商品がない。12年前に発売した<美麗の素>以来だ。干支もひと回りだ。まあ僕たち営業部の努力でなんとかロングセラー商品として生き残っているが、それだけではこの先、流行廃りの早いこの世の中で生き残っていけないかもしれない。我が社のさらなる発展のために、新しいヒット商品をつくらなければならないんだ。」
近藤課長は祐子の方に目を向けながらつづけた。
「遅れてきた者もいるようだが、その責任が諸君のかたにかかっていること自覚してこの会議に臨んで欲しい。とにかく売れる商品をつくってくれ!」
そう檄を飛ばすと、満足そうにイスにどしりと腰を下ろした。
ほうらね、思った通り。目新しいのは私に嫌味を言ったことくらいだ。私は心の中で思い切り「あっかんべー」をしてみせた。
木崎は少しとまどうような目を見せながら、
「近藤課長のおっしゃるとおり、今度の新商品には社運がかかっていると言っても過言ではありません。ただ、この場ではみなさんの率直なご意見をお聞きしたいと思いますので、あまり固くならず気軽にお話しいただければと思います。」
さすが木崎さん、ナイスフォロー。と、おそらく誰もが思ったに違いない。ほとんどの人が小さく頷いていた。
「では、早速ですがテーマについてご説明いたします。資料ご覧になりながらお聞きください。この新商品は、20代前後をメインターゲットとして企画しています。それは化粧品ユーザーのボリュームゾーンの1つで、ティーンエイジャーゾーンで化粧品入門を果たした女性が、この後につづく30〜40代のゾーン、50代〜のゾーンへの重要なステップとなるからです。いわば女性がいつまでも魅力的な光を放ちつづけるという社名ルミネスのファン拡充と定着を狙った商品戦略が求められるわけです・・・」
ナツミも祐子も感心しながら流れるような木崎チーフの説明に頷いていた。いや聞き惚れていたと言ってもいい。
「・・・そこでキーワードは、<すっぴん>です」
祐子は、一瞬ドキッとした。会議室の女性たちも一様にこの<すっぴん>に反応したようだった。
木崎チーフはこの会議室の空気の変化に反応してつづけた
「そうです。私たち企画室では、女性の素肌こそ一番美しいと考えました。何も付けていないような素肌感覚。しかし肌を保護する化粧品として機能性とカラーやスメルといった魅力を研ぎ澄まし、融合させた商品を目指したいと。」
そう言って、企画室の大野真弓に目配せすると、テーブルにパッケージデザインと青い試薬瓶に入れられた2つの試作品を広げさせた。
「そこで1つ目は、素肌感覚を際だたせ<水>をテーマとした新ブランド<アクア・キューブ>」
なんて素敵なブランドなんだろう。祐子はコンセプトと名前だけでもううっとりとしていた。
「もう1つは香りを際だたせ<薔薇>をテーマとした<グラン・ローズ>です」

え?ローズ?
ローズというキーワードに、祐子は昼休みの公園のことを思い出した。季節はずれの薔薇の香り。あれはどこから流れてきたんだろう。そう思いながら無意識に、ポケットに入れていた鎖のカケラを取り出していた。



3.

祐子の左手の手のひらの中で、その鎖のカケラから、微かに薔薇の香りがした。

なぜか木崎チーフの声も周りの雑音もすっかりかき消え、祐子はまどろみにも似た穏やかな時間へと入り込もうとしていた。あの昼休みの公園の時間のように。
ナツミが小声で声をかけた。
「どうしたの?それ」ナツミの言葉で祐子は現実になんとか引き戻された。
「・・・ちょっとね」と笑顔で返したが、祐子にはこの鎖に、戸惑いと不思議な親近感を覚えはじめていた。そのとき聞き覚えのある不快な声がした。
「そこの庶務課、会議中だぞ。私語は慎みたまえ」
近藤課長がこちらを睨みつけている。周りも一斉に祐子たちを見た。
とっさに立ち上がり「申し訳ございません」と誤ろうとした祐子は、その言葉が終わらないうちに、自分のそそっかしさを嘆くことになった。
急に立ち上がろうとした祐子は、イスを後ろに引くのを忘れていた。膝がテーブルを押し上げ、向こう側へ傾き、その弾みでファイルが滑り落ちそうになった。
祐子は慌てた。反射的にファイルを取ろうと身体がうごいた。が、傾いたテーブルに覆い被さるようにファイルに手を伸ばしてしまったのだ。そのため、テーブルはさらに傾き、祐子とともに倒れ込んだ。
とくにこんな状況では、ついてないことは重なるもので、まったく倒れ込んだ場所が悪かった。勢いがついた祐子は、こともあろうに新商品の試作品を並べたテーブルに体当たりをする格好になってしまった。その反動で試作品は床に転げ落ち、運悪く1本の瓶の磨りガラスの蓋がはずれた。<グラン・ローズ>とラベルに手書きされたその試作品は、会議室の床を這うように広がった。当然、噎せ返るような薔薇の匂いが部屋中に充満すると思いきや、その香りはあくまで控えめで心地よい仄かな存在感を漂わせていた。
「キミッ!何をしてるんだ!」
その美しい香りの奥から甲高い声がした。
近藤課長が真っ赤な顔をして、祐子をなじるように指さした。
急いで起きあがった祐子は、恥ずかしいのと、大変なことをしてしまったという申し訳なさで、うつむいたまま精一杯の震える声で祐子は頭を下げた。
「本当に申し訳ありません!」
半分泣きそうになりながら、助けを求めるようにナツミを見ると、あきれた顔で呆然と祐子を見つめていた。そのとき「大丈夫?怪我はない?」と声をかけてくれたのは、やはり木崎チーフだった。そう言いながらそばに来て、祐子の肩に手を添えた。いや、手を添えようとしたに違いない。
偶然のいたずらは、どんな故意よりも芸術的で必然的なのかもしれない。木崎が祐子の肩をポンッと叩こうとしたその瞬間、床にこぼれた<グラン・ローズ>の液体に足を滑らせた。木崎は祐子に肩すかしを食わされた格好となり、その右手は宙をもがき祐子の左手を掴んだ。その弾みで二人とも床に倒れ込んでしまったのだが、その時偶然にも、祐子の左手に握られていた鎖のカケラが、祐子の薬指と木崎の右手の薬指にはまってしまった。
仄かな薔薇の香りに包まれた二人は、お互いの手を取りながら起き上がった。
「本当にすみません」 祐子の言葉に、木崎は悪戯っぽい笑顔を返した。
「大丈夫かい・・・。今日はついてないね、お互いに」
祐子はまた頭を下げた。
「あっ」
木崎が倒れた瓶に手を伸ばそうとした時、祐子はまた手を引っ張られた。お互い怪訝そうに顔を見合わせ、自分たちの手がしっかりと結ばれていることにやっと気がついた。 「これは・・・?」
木崎は少し狼狽えた目で、偶然にも結ばれた自分と祐子の手を見つめた。そして、なぜか分からないが、どうやら自分たちの手が、小さな鎖のカケラで結ばれてしまったことを理解した。
祐子はもっと驚いていた。
{・・・どうして?」
大きく開いていた鎖の継ぎ目が、しっかりと閉じられていた。


4.

「キミたち、何をしているんだ、さっきから!」
オフィス中に響くような怒鳴り声で我に返った二人の前に、近藤課長が詰め寄ってきた。とその時、木崎と同じように、あの床に広がった<グラン・ローズ>に足を滑らせた。が、掴む手も藁もない。取り付く島もない。バナナコントのように、ぐるぐると手を回しながらそのまま仰向けに倒れ込んだ。
「近藤課長!」
「課長、大丈夫ですか」
「あたたた・・・。」
起き上がろうとした近藤の頭から黒い影がボサッと落ちた。
「あっ」祐子は声を押し殺した。
一瞬、会議室が凍りついた。全員の目がその黒い影を追ったが、すぐに目をそらし何事もなかったように振る舞おうとした。しかしこの状況では、見て見ぬ振りが慰めにもならないのは分かり切ったことだった。カツラが落ちたことに気づいた近藤課長は、狼狽しながらも冷静を装うように、薔薇の香りが染みついたそれを頭に乗せた。そして泣きそうな目を怒りの表情で隠しながら、祐子を睨みつけるとドアの方へ歩いていった。ドアノブに手をかけながら背中越しに
「今日の会議は、中止だ!」
そう言うと、近藤課長は勢いよくドアを開け出ていった。
残された祐子たちは呆然として見送った。そして誰もが、このおぞましき一連のアクシデントに休息の時が訪れたことで安堵の表情を見せた。祐子も緊張から解放されたように吐息を漏らした。と同時に、ガヤガヤと会議室がざわめきだした。クスクスと笑う者もいれば、同僚と小声で話す者や呆れた顔で宙を見上げる者もいた。
「え〜皆さん、確かに今日はもう会議になりそうもありません。試作品がだいぶこぼれてしまって、匂いも広がってしまったので、香りのテイスティングもできそうもありませんし、また日を改めて近日中に会議を持ちたいと思います。スケジュール調整をして後日ご連絡いたします。またご協力をお願いすると思いますので、よろしくお願いします。・・・それでは今日はこれで終わります。各自職場へお戻りください、お疲れさまでした」
木崎が、この大惨事(?)の原因である祐子と仲良く手を取り合いながら、全員を見渡して言った。祐子は目を伏せたまま木崎の陰に隠れるように頭を下げた。

会議のメンバーがドヤドヤと出ていった後、「祐子、だいじょうぶ?」と、残っていてくれたナツミが私のそばに駆け寄ってきた。私はすぐにナツミに抱きついて、今日の不幸を嘆きたかったが、ナツミはそれを察してか軽く肩に手を添えると耳元で囁くように、
「でもちょっとラッキーだね、ふふふ」と、木崎とのツーショットを冷やかして悪戯っぽくウィンクして見せ、
「私もお手伝いしま〜す」と、大野に声をかけると二人で後片づけをはじめた。
ちっともラッキーじゃないわ、まったく。今日は一年に一度あるかないかのツイテナイ日だわ。そう思いながらもナツミの言葉に、それまでの緊張が少し和らいだ。
「あの〜、私も何か・・・」と言いかけて躊躇した。そうだ。私はまだ木崎さんと結ばれていたんだ、あの鎖で。

ナツミのおかげで少しは勇気づけられた気がしていた私は、すぐにこの非現実的な現実に引き戻され、途方に暮れながら呟いた。
「この指、なんとかしないと・・・。」
申し訳なさそうに木崎を見上げると、祐子の左手を引き上げながら、鎖でつながれた指を少し動かして
「何とか抜けそうなんだけどなあ。石けん水とか油とかあれば抜けるかも。ほら、指輪みたいに」
と言いながら辺りを見回した。テーブルに残された<グラン・ローズ>の瓶が木崎の目にとまった。
「これ、いけるかも」
木崎は、<グラン・ローズ>の瓶に手を伸ばした。
瓶に残っていた液体を自分と私と鎖の隙間に流し込むと、木崎はゆっくり指を動かした。しかし抜けるどころか、ますます指に食い込んでいくような気がした。
「イタタッ」木崎は思わず声を漏らした。
「木崎さん、こっち!」
私は咄嗟に<アクア・キューブ>の瓶を渡した。
なぜ<グラン・ローズ>ではなく、<アクア・キューブ>を選んだのか、自分でもはっきりとした理由は分からなかった。薔薇の香りに飽きたからか、この一連のアクシデントに薔薇の香りが絡んでいて、それを避けようと無意識に自己防衛の感覚が働いたのか。いずれにせよ、その選択が正しいことがすぐに証明された。鎖と指の隙間にもう一度流し込まれた別の液体は、薔薇の香りを退けるように清々しいアロマを漂わせて染み込んでいった。私は、鎖の呪縛が解き放たれていくのを感じていた。
「おっ、今度は抜けそうな気がするぞ」
そう嬉しそうに言うと、木崎はゆっくりと薬指を回しながら、鎖のカケラから自分の指を引き抜いた。
「やった!抜けたよ。ありがとう」
「とんでもない、こちらこそご迷惑をお掛けいたしました」
私も指から鎖を外すと、安堵の気持ちでやっと笑顔が自然にこぼれた。二人はつかの間の小さな幸せに浸った。それを見ていたナツミと大野が駆け寄ってきた。
「祐子、良かったね」
ナツミは私の肩を叩きながら自分のことのように喜んでくれた。が、私は手の中にまだあの鎖のカケラがあることを思い出すと、一度ナツミを制して笑いかけると、鎖をポケットの中に入れた。
「チーフお疲れさまです」
大野真弓は木崎に声をかけると、いつものように冷静な口調で
「資料とパッケージデザインは、企画室の方へ持って帰りますが、試作品は研究室へ一度バックしておきますか」
「ああ、そうしてくれ。ありがとう。僕もすぐに戻るから、後で次の会議の打ち合わせをしよう」
木崎の言葉に軽く会釈すると大野は会議室から出ていった。
私は大野の背中に礼をして、木崎の方を振り向くと深々と頭を下げた。ナツミも慌てていっしょに頭を下げた。
「今日は本当にすみませんでした」
「な〜に平気さ。気にしないで。それよりキミの方は大丈夫?これにめげずに次回もよろしくお願いしますよ。さあ、君たちもそろそろ部署に戻った方がいいんじゃない?」
「あっ、祐子、早く戻らないと」
ナツミの言葉に促され、私はもう一度頭を下げると会議室を後にした。


5.

庶務課へ戻る廊下を歩きながら、祐子はポケットに入れた鎖のことが気になっていた。この鎖のカケラは、いったい何なんだろう。あのベンチの鎖であることは間違いないような気がする。あの時その鎖が外れて偶然掴んだに違いない。でも何故握っていたことにすぐに気づかなかったのだろう。それにあの薔薇の香り、連鎖反応を起こしたような今日のあの出来事・・・。
「祐子、どうしたの?庶務課はここでしょ」
祐子は背後から掛けられたナツミの声で我に返った。気がつくと自分のオフイスのドアを通り過ぎていた。
「まださっきのこと、気にしてるの?そんなに思い詰めないで。大丈夫よ、今日はちょっとツイてない日なのよ」
ナツミに励まされて席に着いた祐子は、目の前に積まれた書類に驚いた。
「三井君。今日は会議、大変なことになったらしいね」
課長の蒔田が、にやにやしながら側に立っていた。
「営業の近藤課長から聞いたよ。まあ、しょうがないさ、人生色々あるからね。ただどうしても、この営業伝票をキミに処理してもらいたいと。まあ近藤さんの我がままはいつものことだけど、君もこれが今日最後の災難だと思ってさ、よろしく頼むよ」
蒔田は少し気の毒そうに祐子の肩を叩いた。
あのヅラオヤジ!私は近藤の顔を思い浮かべ忌々しく思いながら、あの災難がこんなところで繋がっていたのかと肩を落とした。これじゃ残業確実じゃない。それどころか今日中にできるのかしら。そう思うとため息が出た。でもとにかく、これを片づけなくちゃ本当に散々だった今日は終わりそうもない。明日に引きずってしまっては絶対いけないと思った私は、覚悟を決めてうず高く積まれた一番上の伝票を広げた。その時、隣の席でちょっとにやけた顔で私の様子を見ていたナツミが話しかけてきた。
「祐子、ホントに今日は厄日ね。私も2回、近藤課長に伝票の富士山を造られたことがあったけど、今回はチョモランマね、ふふふ。」そして急に真顔になると、さらに小声で続けた。「・・・ところで、あの鎖のカケラ、どうしたの?」
ナツミもやはり、ずっとあの鎖のことが気になっていたらしい。
「えっ?あ、うん・・・」
私は曖昧に返事をしたが、ポケットからあの鎖のカケラを取り出してナツミに見せながら、思い切って今日のことを話した。
いつものお気に入りのベンチのこと、その背もたれの鎖が切れたこと、いつの間にか手に握りしめていたこと。そして薔薇の香りのこと。
「ふ〜ん。不思議なことがあるものね。・・・それって鎖の祟りじゃない?それとも薔薇の精の怨念?」
「えっ?」
私はドキッとしてナツミの顔を見つめた。
「ま、まさか」
私の顔がこわばるのを見て、ナツミは笑いながら
「あはは。冗談よ、ジョーダン。偶然の悪戯が続いただけよ。気にしない気にしない。さあ、がんばってこの山を征服しなくちゃ」と励ました。
私もそう思いたかった。悪い偶然が重なったツイていない日なんだ、今日は。そう自分に言い聞かせ、鎖のカケラをデスクの引き出しにしまうと伝票の山へ挑みはじめた。

午後9時を少し廻った頃、最後までいっしょに残っていた蒔田が祐子の肩を叩いた。
「どう?」
「ええ、もう少しで終わりそうです」
不思議なことに思ったより順調に伝票処理が進んでいた。あれだけあった伝票の山も小さな丘くらいになっていた。
「そうか、それじゃがんばれよ。後はよろしくな」
そう言うと蒔田は親指を立てて部屋を出ていった。一人オフィスに残された祐子は、あらためて残りの伝票を前に時計を覗くと大きく背伸びをした。
「よーしっ、このペースで行けば10時には終わりそうね。終電にも間に合うわ」
なにより災難の連鎖が、今日中に終わってしまえることが嬉しかった。
祐子が最後の伝票を片づけたのは10時ちょっと前だった。更衣室で帰り支度をしながら、祐子はふと、鎖のカケラのことが気になった。
「そう言えば、デスクの引き出しに仕舞ったままだったわ」
その時、どこからか薔薇の風がそよぎ祐子の鼻先をかすめていった。
「えっ?また薔薇の香り?」
祐子は少し怖くなった。ドドッドドッと、急にカラダが不安なリズムを刻みはじめた。心臓の鼓動が体中を揺さぶっているようだった。祐子は急いでオフィスに戻ると、デスクの引き出しを開けた。鎖のカケラは、祐子を待っていたかのように少し揺らいで見えた。
「早くあのベンチに返さなくっちゃ」理由は分からないが、そう感じた。
鎖のカケラを右手に掴むと祐子は、急いでオフィスを後にした。


6.

公園までの街灯もまばらな道を祐子は小走りに急いだ。手にはしっかりとあの鎖のカケラを握りしめて。
公園の入口にたどり着いた時、祐子は腕時計を見た。午後10時12分。公園からは歩いて5分ほどで地下鉄のM坂駅に着く。23時18分の終電にはまだ余裕で間に合うあはずだ。
祐子が公園に一歩足を踏み入れた時、また薔薇の香りがした。右手を開くと、あの心地よい薔薇の匂いが広がった。その香りは明らかに鎖のカケラから発散されていた。祐子はもう、この不可思議な現象に驚いたりはしなかった。むしろこれで今日の出来事の辻つまが合うような気がした。そう思うと祐子は力強く歩きはじめた。
その時、公園の入口と交差するように設けられた散策路から突然、黒い影が祐子に襲いかかるように現れた。
「キャッ」
ジョギングをしていたその男性は、急に目の前に現れた女性を避けようとした。が、バランスを崩して茂みに倒れ込んだ。その弾みで、手に持っていたミネラルウォーターのボトルが勢いよく宙を舞い、公園脇を走る幹線道路へと放り投げられた。運悪く車道へ飛んでいったペットボトルは、ちょうどその時通りかかったクルマのフロントガラスにぶつかって割れ水を飛び散らせた。この時クルマのドライバーが慌ててハンドルを切ったため、危なく街路灯の柱に激突するところだった。が、それを見ていた対向車のドライバーは、目の前を横切る子犬に気がつくのが遅れた。ペットボトルが宙を舞っていたまさにその時、公園を散歩中のキャバリア・キング・チャールズ・スパニエルが飼い主のリードをふりほどきペットボトルを追いかけて車道へ飛び出していたのだ。
「キキーッ。キャン、キャンッ」
子犬は運良く、軽くバンパーにコツンとあたっただけで怪我もなく、飼い主の方へ向かって駆け寄ってきた。しかし飼い主の50代半ばと思われる夫人が黙っていなかった。
「ラーラ!おお、私の可愛いラーラちゃん」
愛しい子犬を抱きかかえると、そのドライバーのもとへ駆け寄ってがなり立てはじめた。その時、公園脇の赤ちょうちんでチビチビやりながらそれを見ていたサラリーマン二人が千鳥足で乱入してきた。
「どったあ〜の?」
一人の酔っぱらいサラリーマンが、夫人に抱かれた子犬に顔を近づけた。
「ワンちゃん大丈夫?うん?大丈夫かあ・・・ワンちゃんは元気そうだよ、いいじゃないのおばさん」
その言葉に夫人はキッと酔っぱらいを睨みつけた。
酔っているからしょうがないのだが。絡みはじめたサラリーマンに、その夫人は容赦なく食って掛かろうとした。が、酔っぱらったサラリーマンは無敵だ。日頃のうっぷんを晴らすために、日頃のストレスを解放するために酒を飲んでいるのだ。そして酒はまさに鬱積した自我との葛藤を解き放つ百薬なのである。夫人の不愉快きわまりないという表情を読みとることなどできずに、もう一人が犬を抱いてキスをしようとした。
「何するの!うちの子に。汚らわしい!」
夫人は思わず、つきだした男の顔を手で払いのけた。
男は酔っていたせいもあって、簡単にヨロヨロと路上に倒れ尻もちをついた。男は急に険しい顔になると起き上がりながら
「何すんだ!このくそばばあ!」と叫んだ。
「くそばばあとは何よ!あんたなんかゴミよ、カメムシよ」
夫人はその男を口汚く罵った。
が実は、夫人が男に罵声を浴びせかけるちょうどその時、赤ちょうちんのオヤジが二人の間に入ってきた。夫人の言葉は、赤ちょうちんのオヤジに向けて発せられる格好になった。
「なんだとお!?」赤ちょうちんのオヤジは、脅しの利いた鋭い眼光で夫人を睨みつけた。一瞬たじろいだ夫人は、少し後ずさりをして子犬をしっかりと抱えた。これでこの事態が険悪なままではあったが、なんとか収まりそうに見えた。しかし、いつの間にかあたりには人だかりができていた。

その様子を公園の入口で立ち尽くしたまま見ていた祐子は、やっと我に返った。そしてこんな夜中に、こんなにも人がいることに驚いた。
何人かは携帯でどこかへ電話を掛けている。また別の何人かは写真を撮ってメールをしている。偶然遭遇した珍事を、自慢げに知り合いに報告しているのだろう。
その頃、子犬を轢きそうになったクルマの後ろついていたタクシーのドライバーが、無線で営業所へ連絡を入れていた。
すぐにサイレンの音が聞こえ近くの派出所からパトカーが到着した。当事者たちは一様に緊張したが、とくに大きな傷害とか物損とかの被害もなさそうだとすぐに見て取った田上巡査部長は、
「何があったんですか」と優しい口調で切り出した。田上はM市警ベテラン巡査長で、鋭い眼光をその穏和な表情に隠し豊富な経験から、M公園派出所でも評判が良かった。田上は一同を見渡してからもう一人の警官に、
「後藤君、そのご夫人から話を聞いてくれ」と指示を出した。
後藤慎治巡査は、まだ警察官になって1年半の若い警官だった。実直で熱血漢あふれる誠実な人柄がにじみ出ていた。後藤は夫人の言葉に頷きながら時になだめながら、メモを取っていた。
大げさにするほどの実質的な被害があるわけではなさそうなので、現場での簡単な事情聴取ということで処理しようとしていた。ところが野次馬の数がどんどん増えてきていた。はじめは二十数人程度だったのが、いつの間にか100人を越えていた。
「こっちの方は、穏便に片が付きそうだが、この野次馬を何とかしないとな」田上はやれやれといった表情で辺りを見回しながら
「後藤君、署に連絡して応援をよこすよう手配してくれ」と言ってパトカー無線を指した。
後藤は県警へ大まかな内容が伝え、応援を要請をした。

「あー移動から本部へ。M坂駅のM市やすらぎ公園前での案件は、ドライバーの脇見により、飼い犬のキャバリア・キング・チャールズ・スパニエルと接触、飼い主とドライバー、酔っぱらい2名口論となるも、当事者の話し合いと言うことで解決の見通し。ただし野次馬が多く暴徒の恐れ有り、排除の応援を要請したい」

パトカーから応援の連絡が入った県警は付近を警邏中の機動隊パトカーに無線連絡をした。が、この時すでに、野次馬が増えたため携帯電話による電波状況が悪くなり、なぜか緊急用周波数帯域へも影響を与えていた。連絡内容が聞き取りにくい状況になっていたのだ。そのうえ、野次馬の電話やメールを受けた者の中には、あわてて110番や119番通報する者もいたので、通報が重複しさらに事態を複雑にしていった。
この惨事の首謀者(?)である祐子は、公園の木の陰からそっと覗きながら、どうやらこの一連の事態が収束へ向かっていることに内心ほっとしていた。また私のせいで今日の会議の二の舞になるのではと心配していたのだ。
「結構大事になったけど、何とか無事済みそうで良かった」
が、その希望はすぐに打ち砕かれた。
どこからともなく、サイレンの音が聞こえてきた。一つ二つではない。M市の全部のパトカーと消防車と救急車が出動したのではないかと思うほど、けたたましいサイレンが続々とM坂駅入口付近を中心に、この大惨事の最初の舞台となった公園前にも到着し、赤ちょうちんの屋台の周りははふたたび騒然とした。午後10時38分。やがて自衛隊の特殊部隊まで到着した頃には、野次馬の群れは、倍以上に膨らみはじめていた。


7.

祐子や後藤巡査を含め、この大惨事の最初の当事者たちは、何が起こったのか理解できなかった。自分たちの事件と関連があるのか、全く別の何かとてつもない事件が起こったのか。ただ誰もが、自衛隊の特殊部隊まで出動しているのだから、ただ事ではないと感じていた。

実は、祐子がほっと胸をなで下ろしていた頃。複雑になった通報は、県警から救急司令室へ、救急からレスキュー本部へ、レスキューから自衛隊へと伝言ゲームはねじ曲げられていった。
「M坂駅で、キャバリア菌散らすスパイいる。接触後暴動が起きたとの連絡。至急現場へ急行されたし」と、誤報が伝わっていた。
ちょうどその頃、M坂駅に向かっていた地下鉄は緊急停車命令によりM坂駅とM市庁前駅の間で停車していた。その場所はちょうど、あの大騒ぎが起こっている現場の真下だった。

緊急停車してからおよそ3分。4両編成の電車はそれほど混み合ってはいなかったが、電車の中に閉じこめられた乗客は、ガヤガヤと騒ぎはじめていた。内野知里は動かない電車の中で、あの日突然消えてしまった同僚の野口直之のことを考えていた。その時、車内アナウンスが響いた。
「ブッ・・・お急ぎの所誠に申し訳ございません。ただいまこの電車は、信号によりM坂駅手前およそ2キロのところで停車しております。詳しい状況が分かり次第アナウンスいたしますので、いましばらくそのままお待ちください。・・・ブツッ」
車内はますますざわめきだした。一人が携帯電話をかけはじめた。するとほとんどの客が携帯電話を取りだしてメールや電話をはじめた。知里も携帯を取りだしてみたが、この状況じゃ繋がらないと諦めた。するとまた少し慌てたようなアナウンスが聞こえた。
「ブッ・・・ただいま確認いたしましたところ、この先のM坂駅で事故があり、しばらくこの電車は運転を見合わせることになりました。誠に恐れ入りますが、避難路から地上へ誘導いたしますので、車掌の指示に従って慌てずにお降りください。・・・ブツッ」
乗客たちのブーイングが車内に充満した。やがて車掌がやってきて非常コックをひねるとドアを開けた。
「誠に申し訳ございません。このドアから順番にお降りください。お降りになりましたら先頭車両の方へお進みください。緊急避難路の入口に運転士がおりますので、指示に従って慌てずに避難路の階段をお上りください。お足元が悪いのでお気を付けてお進みください」そう言い終わると車掌は次の車両へと歩いていった。
知里をはじめ地下鉄の乗客は、言われるままに電車を降りた。こんな体験は滅多にあることではないから、中には探検でもするような気分で恋人と寄り添って歩く者もいた。電車の窓からもれる明かりで足下はそれほど暗くはなかった。100メートルほど歩くと、運転士が頭を下げながら手を振って乗客を誘導しているのが見えた。
誘導路は誘導灯が点き、思ったより明るく広かった。ただ、階段が長くお年寄りにはちょっと辛いように思われた。四角く切り取られた黒い出口から外へ出ると、そこは知里もよく知っているM市やすらぎ公園だった。
「ふ〜ん、こんな所に出るんだ」
新しい発見に少し得した気分になった。幹線道路の方へ目をやると、赤色灯の華やかなイルミネーションが野次馬たちの雑踏と競演をしていた。
「何があったんだろう。これはネタになるかも」と、さらにあたりをぐるりと見渡したとき、知里の目に公園のかたすみで佇む人影が見えた。華やかな群衆の輪の中へ向かおうとしたが、その人影がなぜか気になった

地上では、映画で見るような防護服に身を包んだ自衛隊の特殊班が、バリケードを立てていた。応援に駆けつけた警官たちは、ようやく群がる野次馬たちを排除しはじめた。それでも野次馬たちは遠巻きにしながらなかなか帰ろうとしない。これからはじまるかもしれない一大イベントを待っているようである。そんな中、祐子はあの鎖のカケラを握りしめたまま呆然と立ち尽くしていたが、何かを決心したように鎖を手の中で強く握ると公園の暗がりの中へ走り出した。

「早くこの鎖を元に戻さないと」
この事態は、やはり私が・・・いやあの鎖のカケラが招いたことに違いない。このままではもっと大変なことになりそう。私は公園のあのベンチへ急いだ。薄暗い公園の中でそのベンチは、まるで自分の居場所を知らせるようにぼんやりと光って見えた。
ベンチの側に立つと、もう一度手のひらの鎖のカケラを見つめた。鎖の切れ目はずいぶん大きく広がっていた。
「これなら上手くつなげられそう」
私は支柱の輪に鎖のカケラを通した。それから垂れ下がっていたベンチの鎖に引っかけた。するとまた、あの心地よい薔薇の香りが漂ってきた。今度は確かにこのベンチから香っているのが分かった。すると、ベンチの鎖に引っかけただけの鎖のカケラは、自らの意志でゆっくりと締まっていくのが、私にははっきりと見えた。
その時遠くから、拡声器の声が聞こえてきた。
「地下鉄M坂駅の火災は誤報でした。深夜ですので、皆様速やかにお帰りください・・・」
繰り返されるアナウンスに、私は達成感と虚脱感で身体の中にジーンと流れる血のさざ波を感じた。
「もうこれで鎖の腐れ縁から逃れられるのね」



8.

祐子が疲れ果てて涙で潤んだ瞳に、やっと安堵の表情を浮かべてベンチに顔をすり寄せた時、背後から不意に声がした。
「どうしました?何か具合でも・・・」
知里は、その瞳に涙をためていた祐子に声を掛けた。
突然の人の声に、祐子は慌ててベンチから顔を上げた。
「えっ?あ、いえ、大丈夫です」
知里は、失恋した女性が泥酔してベンチで泣き崩れているのだと思っていたのだが、祐子の晴れ晴れとした表情に少し驚いた。
「本当に大丈夫です。何でもありませんから。・・・もう終わったんです、これで」
祐子は自分に言い聞かせるように力強く立ち上がると、星空を見上げた。
「ありがとうございます」
祐子は知里に頭を下げると、M坂駅の方へと歩き出した。
M坂駅入口に近づくと、帰り支度をするレスキューや自衛隊、足止めを食ったサラリーマン、野次馬などで、まだ人集りができていたが、どうやら地下鉄は速やかに運転を再開したらしく、地下鉄のホームへ向かう人の波は、朝の通勤ラッシュほどの混雑はなくスムーズに流れていた。祐子はその人波に身を任せて通い慣れたホームへと降りていった

彼女の背中をベンチの側で見送りながら、知里は、祐子の「もう終わったんです、これで」という言葉が妙に気になった。恋が終わったと考えるのが一般的だが、どうもそうではないように思えた。気が引けたが、思い切って彼女の後を追いかけた。
M坂駅のホームへ降りる人混みの中に、ようやく彼女を見つけた知里は、見失わないよう人波をかき分けるように進んでいった。改札口に通ると人の波は四方に分かれ、3番線のホームで電車を待つ彼女を見通せるほどになった。
知里は、少し間を空けてホームに並んだ。思い切って声を掛けようとも考えたが、偶然の再会の機会をもう少し遅らせた方がいいと思った。彼女は目を閉じて何かを思いだしているようだった。間もなく3番線に電車が滑り込んできた。とその時、彼女の身体がスーッと電車の方へ倒れ込んでいくのが見えた。
「あっ」
電車の前に倒れていく彼女の身体が仄かに揺らめくと霞のように消えた。

私は地下鉄の改札をくぐると3番線のホームに降り立った。今日の出来事を振り返りながら、いつものように先頭車両側の端の方で電車を待っていた。目をつぶり、本当に散々な一日だった。でもなんて不思議な体験をしたんだろう。と、偶然の悪戯を思い返していた。列車の到着を告げるアナウンスが響いた。その時、私は体中に震えを覚えて閉じていた目を見開いた。
「・・・薔薇の香り」
そう呟くと、穏やかで優しい香りに包まれた私は、抗うこともなくその香りのゆりかごに身を委ねた。身体中の力が抜け意識がスーッと遠ざかっていく。

気がつくと私はあの薔薇の香りに包まれていた。包まれるというより香りそのもののように漂っていた。身体を起こそうとするが動かない。これは夢かしら。
ゆっくりと目を開けるとそこには見慣れた風景が広がっていた。小春日和の穏やかな昼下がり、紅葉で色づいた木々。鳩の群に混じりながらくつろぐOLやビジネスマン。ママと追いかけっこする幼児の笑い声が、噴水の音と重なりほどよいアドリブとなって流れてくる。
ここはあの公園だわ。
その時、走り回っていた幼児が私の前にやって来て背中を押し当てた。何をするの?と思いながら私は小さく声を漏らした。
「あっ」
すべては偶然と偶然の狭間を縫うように、必然が一つの鎖で繋がっている。薄れていく意識が、香りのように風に運ばれていった。

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